宦官の廕叙に反対する
- 周𢎞祖は麻城の人。嘉靖三十八年(1559年)の進士。吉安推官に任じられ、召されて御史となり、外に出て屯田・馬政を監督した。
- 隆慶改元(1567年)、司禮監の中官および藩邸の近侍で錦衣指揮以下に廕叙された者が二十余人に及んだ。𢎞祖は急ぎ疏を上げてこれを止め、金幣を賜うか世襲を停めるかにとどめるよう請い、こう述べた。髙皇帝の定めた制では、宦官は走り使いと掃除に当たるだけで政事に関わらせなかった。孝宗が大臣を召して対したときも、宦官は必ず百歩あまり退かせ、関与させないだけでなく耳にも入れさせなかった。陛下も彼らと謀議せず、笑顔を見せることもなければ、彼らに政を乱す足がかりはなく、聖徳は太祖・孝宗に並ぶであろう。
- また、先帝の治世の初めに太監の張欽の義子を錦衣に廕叙しようとしたとき、兵部尚書の彭澤が四度も執って上奏したことを挙げ、いま趙炳然が澤の位にありながら澤の忠に倣えないのは罪を逃れられない、と述べた。返答は聞き置くというものであった。
- 続いて内府の監局・錦衣衛・光祿寺・文思院の冗員を汰減して嘉靖初年の旧に復すことを請い、また古の社倉の制を調べて行うことを請い、詔でいずれも従われた。
災異による諫言と左遷
- 翌年春、こう述べた。近ごろ四方で地が震え土が裂けて溝となり、旗竿がたびたび燃え、天鼓が再び鳴り、星が隕ち、旋風が起き、天から黒豆が降った。これはみな陰が盛んな徴である。陛下は位を継いで二年、いまだ大臣を接見して治道を諮られたことがない。辺境の患いははなはだ切迫しているのに防備の方策がなく、事が内廷に関わるとたちまち妨げられる。馬の閲兵や庫の点検は詔が出てもまた停まり、皇荘では直に収穫を取り立て、太和では香銭を取り立て、織造の使いは重ねて遣わされ、糾弾の疏は宮中に留め置かれる。内臣の爵賞は、辞退の言葉への温かい旨が六卿へのそれをはるかに超えており、これはとりわけ祖宗の朝には絶えてなかったことである、と。疏は上がったが返答がなかった。
- その冬、珍宝を買う詔が出て、魏時亮らが争ったが聞き入れられず、𢎞祖もまた切に諫めた。
- まもなく福建提學副使に移った。大學士の髙拱が吏部を掌って言官を考察したとき、𢎞祖および岑用賓らを憎み、𢎞祖を安順判官、用賓を宜川縣丞に左遷した。
- 用賓は廣東順徳の人。南京給事中の官にあって論劾するところが多く、また拱の狷介強情を論じたことがあったので、拱に恨まれた。外に出て紹興知府となったが、考察の典で陥れられ、ついに左遷先で卒した。
- 𢎞祖は左遷後まもなく拱が罷免されたので、広平推官に移された。萬厯年間にたびたび移って南京光祿卿となったが、朱衣で陵に参拝したことで免ぜられた。
鄧洪震――地震にことよせた諫言
- 隆慶の初めに地震によって事を論じた者に、ほかに鄧洪震がいる。宣化の人で、当時は兵部郎中であった。
- 疏を上げて言った。夏に入って以来、長雨がひと月続いた。また京師では昨冬に地震があり、今春は砂まじりの大風が吹いて白日も光を失った。近ごろは大同からまた雹が降って作物を損ない、地が音を立てて震えたと報じてきた。陛下が位に臨まれてわずか半年で災異が重なっている。伝え聞くところでは、後宮での遊興に時の定めがなく、嬪御が付き従い後車が満ちあふれ、左右の近習にみだりに賜与があり、政令はたびたび変わって前後で食い違い、邪と正が入り混じり、任用と罷免が定まらないという。万一、奸悪の徒がひそかに生じ、寇戎が侵し来れば、何をもって当たるのか、と。
- 帝はその言を容れ、礼官に下して修省を議させた。洪震はまもなく病で帰郷し、萬厯の改元にあたり督撫が相次いで推薦したが、ついに起たなかった。