明史卷二百十五 列傳第一百三 歐陽一敬

出自と論劾

  • 歐陽一敬は字を司直といい、彭澤の人。嘉靖三十八年(1559年)の進士。蕭山知縣に任じられ、召されて刑科給事中となった。
  • 太常少卿の晉應槐が文選郎であったときの劣悪な状を弾劾し、あわせて南京侍郎の傅頤、寧夏巡撫の王崇古、湖廣參政の孫𢎞軾は應槐の引きで進んだ者だからともに罷めるべきだと述べた。吏部は應槐らのために弁護し、頤だけが罷官となった。
  • ほどなく禮部尚書の董份を弾劾して罷めさせた。三たび移って兵科給事中となった。
  • 廣西總兵は都督を用いるべきで勲臣を用いるべきでないと述べ、恭順侯の吳繼爵を弾劾して罷めさせ、俞大猷を代わりに据えさせた。
  • 寇が大挙して陝西に入ると、總督の陳其學と巡撫の戴才を弾劾し、ともに官を奪われた。
  • また軍政をめぐって英國公の張溶、山西・浙江の總兵官である董一奎・劉顯、掌錦衣衛都督の李隆ら九人の不適任を弾劾し、溶は留任、他はみな貶黜された。
  • 嚴嵩が失脚して以来、言官は競って憤りを発して事を論じたが、一敬はとりわけ直言を敢えてした。

胡應嘉のために楊博・髙拱を攻める

  • 隆慶元年(1567年)正月、吏部尚書の楊博が京察を掌り、給事中の鄭欽と御史の胡維新を黜けたが、山西人には下考の者がいなかった。吏科給事中の胡應嘉が、博は私憤をさしはさんで同郷をかばうと弾劾した。
  • 應嘉は以前に髙拱を弾劾しており、拱は遺恨から重く罪しようとした。徐階らは拱の意に強く逆らうのも憚られ、また應嘉は実際に考察を補佐しながら当初は何も言わず、いまになって同僚に与して妄りに上奏したのだとして、旨を擬して民に落とした。言路は大騒ぎとなった。
  • 一敬は應嘉のために訴え、博と拱を斥け、拱は奸険で横暴なこと蔡京と変わらないとののしり、しかも「應嘉の前の疏は臣も承知していた。應嘉を黜けるくらいなら臣を黜けよ」と述べた。折しも給事中の辛自修と御史の陳聫芳も疏で争ったので、階は應嘉を建寧推官に転じた。
  • 一敬はまもなく、拱は朝臣を威圧して権柄を専らにし国を擅にしているから速やかに罷めるべきだと弾劾したが、聞き入れられなかった。
  • 一か月余りして御史の齊康が徐階を弾劾すると、諸給事・御史は康が拱の指図を受けたとして闕下に群がり、罵って唾を吐きかけた。一敬が真っ先に康を弾劾し、康もまた一敬を弾劾した。当時、康は拱に、一敬は階に与し、互いを党派だと指弾した。言官の多くが康を論じ、康はついに左遷された。

兵政の建言と最期

  • のち兵政について八事を陳べ、部はみな議して実行した。南京の振武營の兵はこれによって廃された。
  • 湖廣巡按の陳省が太和山守備の中官である吕詳を弾劾し、詔で詳を召し還して守備の官を廃したが、ほどなくまた監丞の劉進を代わりに遣わした。一敬は、進はもと名を俊といい、顯陵を守って不都合があり、肅皇帝が獄に下して孝陵衛の浄軍に充てた者だから、いま用いるべきでないと述べ、従われた。
  • 中官の吕用らが京營を管掌したときも、一敬は力めて諫め、事はやんだ。
  • 黔國公の沐朝弼が残虐横恣でたびたび詔旨に背いたので、一敬はその罪を治めるよう請い、許された。
  • ほどなく太常少卿に抜擢された。拱がふたたび起って政を握ると、一敬は恐れてその日のうちに帰郷を願い出、道半ばで憂悶のうちに死んだ。

胡應嘉――髙拱との対立と死

  • そのころ應嘉はすでにたびたび移って參議となっていたが、喪で帰郷し、拱が再び宰相になったと聞いて驚き恐れて卒した。
  • 應嘉は沐陽の人。宜春知縣から吏科給事中に抜擢され、三たび移って都給事中となった。侍郎の黄養䝉・李登雲および布政使の李磐・侯一元の不適任を論じ、みな罷めて去った。
  • 登雲は大學士の髙拱の姻戚であった。應嘉は拱が必ず自分を害すると見て、あわせて拱を弾劾し、「拱は輔政の初めから直廬が狭いといって家を西安門の外に移し、夜更けにひそかに帰っていた。陛下が近ごろ少しご不例になると、拱はすぐに直廬の器物をひそかに外へ運び出した。臣には拱が何を考えているのか分からない」と述べた。疏が上がると拱はたいそう恐れて急ぎ弁明の上奏をしたが、折しも帝が崩じたので事は決着しなかった。拱はこれによって應嘉を恨んだ。
  • 穆宗が位を継ぐと、應嘉は、帝が文華殿に出御して輔臣と面と向かって大政を議し、諸卿を召して諮り侍従に顧問し、科臣には事に随って論駁・建議させるよう請い、帝はこれを容れた。
  • 應嘉は諫官の職にあって直言で名があったが、怒りっぽく人を打ち据えるのを好み、論者はかなり危険人物と見なしていた。