明史卷二百十一 列傳第九十九 何卿

松潘鎮守と芒部の乱

  • 何卿は成都衛の人。志操があり武事を修めた。正徳年間に世職を継いで指揮僉事となり、有能により筠連守備に抜擢され、巡撫の盛應期に従って叛賊の謝文禮・謝文義を撃ち斬った。
  • 世宗が立つと功を論じて署都指揮僉事に進み、左參將として松潘を協守した。
  • 嘉靖初年、芒部の土舍の隴政、土婦の支祿らが叛いたので、何卿が討って首級二百余を斬り、数百人を降した。隴政は烏撒へ逃げたので、何卿は土官の安寧に檄して捕らえ献じるよう命じたが、安寧は承知するふりをして隴政を匿い出さなかった。巡撫の湯沐がその状を言上し、帝は何卿の冠帯を奪った。川と貴の兵が合わせて賊を討ちようやく滅ぼしたので、もとどおり冠帯を還された。
  • 嘉靖五年(1526年)春、副総兵に抜擢され、引き続き松潘を鎮した。隴氏がすでに絶えたので芒部を鎮雄府と改め流官を置いた。
  • まもなく隴政の残党の沙保が再び叛いたので、何卿は参将の魏武、参議の姚汝臯らとともに進撃し、沙保ら賊首七人を斬り、残りもことごとく滅ぼした。功を録するに魏武を第一とし、何卿はこれに次いだ。それぞれ賜与を受けた。

威茂の蕃の鎮定

  • 黒虎の五砦の蕃が叛いて長安の諸堡を囲み、烏都・鵓鴿の諸蕃も続いて叛いたが、何卿はいずれも破って平らげた。その地で都督僉事に進んだ。
  • 威茂の蕃の十余砦が兵を連ねて軍糧を奪い、さらに茂州および長寧の諸堡を攻めて撫賞を要求した。何卿は副使の朱紈とともに茂州の外城を築いて包囲し、ついで計略で衆を減らし、戦うたびに勝ち、深溝を攻めてその碉砦を焼いた。
  • 諸蕃は窮して罪を贖うことを願ったが、何卿は首謀者を差し出せと責めた。蕃が応じないので、さらに兵を分けて淺溝・渾水の二砦を討ち滅ぼした。そこで諸蕃は争って首謀者を差し出し、血をすすり指と耳を切って二度と叛かないと誓った。
  • 何卿は木に刻んで盟約とし、彼らの集団を分けて置き、境界を定めて守らせたので、松潘の路は再び通じた。
  • 巡撫の潘鑑らが二人の功を上申し、詔により銀幣を賜り、署都督同知に進み、鎮守は従前どおりであった。久しくして病により致仕した。

一時の失脚と白草の蕃の討伐

  • 嘉靖二十三年(1544年)、塞上に警報が多く、何卿を召したが病を理由に辞退したので、帝は怒って都督の官を奪い、都指揮使として兵部に出頭して指図を待つよう命じた。まもなく敵が畿輔に迫ると、盧溝橋に陣を張るよう命じられた。
  • 松潘副総兵の李爵が巡撫の邱養浩に弾劾されて罷免され、詔により何卿が代わることになった。給事中の許天倫が、何卿は邱養浩に賄賂を贈って李爵を弾劾させ自分の地位を作ったのだと述べた。帝は怒って何卿と邱養浩の官を剥奪し、巡按の冉崇禮に事実を調べさせた。
  • 当時は兵事が切迫しており、翁萬達が改めて何卿を推薦したので都督僉事に復し、東官庁の軍馬を督させた。まもなく冉崇禮が、李爵は貪汚であり、何卿は松潘を鎮すること十七年、蜀の防壁となって軍民が徳を称えており、しかも貧しくてどこから賄賂を出せようか、と詳しく報告したので、帝の疑いはようやく解けた。
  • 四川の白草の蕃が乱を起こし、副総兵の高岡鳳が弾劾されたので、兵部尚書の路迎が何卿を代わりに置くよう奏した。何卿が再び松潘に臨むと将士はみな喜んだ。
  • 巡撫の張時徹とともに討伐して首魁数人を捕らえ、捕虜と斬首は九百七十余、営砦四十七を攻略し、碉房四千八百を毀ち、馬・牛・器械・蓄えをそれぞれ万を数えるほど獲得した。署都督同知に進んだ。
  • 何卿はもとより威望があり蕃人に恐れられた。威茂から松潘・龍安に至るまで道の両側に数百里の塀を築いたので、使者の往来に略奪の患いがなくなった。前後して鎮に臨むこと二十四年、軍民は慈母のように慕った。再び病により帰郷した。

海防への転用と失意

  • 嘉靖三十三年(1554年)、倭が海上を侵したので、詔により何卿と沈希儀にそれぞれ家の者を率いて蘇松の軍門へ赴かせた。
  • 翌年、副総兵として浙江および蘇松の海防を総理することになったが、何卿は蜀中の名将で海路に通じておらず、年もすでに老い、兵と将も互いに慣れていなかったので、ついに何もなしえなかった。巡撫御史の周如斗に弾劾されて罷免され、没した。