明史卷二百十一 列傳第九十九 馬芳

字は徳馨、蔚州の人である馬芳(?–1581年)。十歳で北の敵に掠われて牧をさせられ、俺答に近侍したのち間道から逃げ帰り、大同を鎮していた周尚文に隊長として取り立てられた。行伍から起こって十余年で大帥となり、宣府・薊鎮・大同を歴任、馬蓮堡では堡の四門を開く空城の計で十万騎を退けた。大小百十度の戦いに身に数十の傷を負い、少数で多数を撃って威名は辺境を震わせ、一時の将帥の筆頭と称された。子の馬棟・馬林、孫の馬燃・馬熠・馬炯・馬爌らが附され、馬林は尚間崖に敗れて開原で戦死し、馬爌は甘州の陥落に殉じた。

年表(12件)

出自と敵中からの脱出

  • 馬芳は字を徳馨といい、蔚州の人。十歳のとき北の敵に掠われ、牧をさせられた。馬芳はひそかに曲がった木で弓を作り、矢を削って射た。
  • 俺答が狩りをしていて虎が前で吠えたとき、馬芳が一矢で仕留めた。そこで良い弓矢と良馬を授けられ左右に侍った。馬芳は表向き従うふりをしながら、□(底本欠字)間道から逃げ帰った。
  • 周尚文が大同を鎮していて彼を非凡と見て隊長に任じた。たびたび敵を防いで功があり官を得るはずであったが、父が貧しいので賞をすべて受け取って養った。

嘉靖年間の連戦

  • 嘉靖二十九年(1550年)秋、敵が懷柔・順義を侵すと、馬芳は馳せてその将を斬り、陽和衛総旗を授けられた。
  • 敵がかつて威遠に侵入した際、塩場に精騎を伏せ、二十騎で挑戦してきた。馬芳はその詐りを見抜き、百騎で伏兵の場所に迫り、軍を三分して精鋭で順に撃ち、勇を奮って躍りかかったので、敵騎は十里を退き、首級は合わせて九十であった。
  • 続いて新平で防ぎ、敵が野馬川に陣して日を決めて戦おうとしたとき、馬芳は敵が逃げるとみて急襲し、斬級はさらに多かった。衆が祝っているところへ馬芳は馬に鞭打って「賊が来る、急ぎ険を守れ」と言い、自ら殿を務めた。まもなく敵が果たして群がり来たが、馬芳がいよいよ力戦したので敵は去った。
  • 間もなく泥河で戦って再び大破した。累進して指揮僉事となり、功により都指揮僉事に進み、宣府遊撃将軍となった。さらに功により都督僉事に飛び越えて昇進し、総督に属して參將となった。鎮山墩の戦いで利あらず俸を奪われたが、のち敵を襲って功があり二秩を進めて右都督となり、まもなく功により左都督に進んで蟒袍を賜った。副将級の者が左都督を加えられたのは馬芳が最初である。

薊鎮・宣府での戦い

  • 嘉靖三十六年(1557年)、薊鎮副総兵に遷り、建昌を分守した。土黙特が十万騎で界嶺口に迫ると、馬芳は総兵官の歐陽安とともに首級数十を斬り、驍騎のモンクト(蒙克圖)ら六人を捕らえた。敵は馬芳がいることを知らなかったが、馬芳が兜を脱いで見せると驚いて「馬太師だ」と言い、そのまま退いた。捷報により世襲の総旗の蔭を賜った。
  • まもなくシリンアバトル(錫林阿巴圖爾)が遵化・玉田を蹂躙し、馬芳は金山寺まで追って戦い功があったが、州縣の被害が多かったので総督の王忬以下がみな処罰され、馬芳も都督僉事に降された。
  • まもなく宣府の守りに移った。敵が大挙して山西に侵入すると、馬芳は一昼夜に五百里を駆けて追いつき、七戦してみな勝った。まもなく左都督に復し、その地で総兵官に抜擢され、功により二秩を進めた。
  • 敵が通州に迫ると馬芳は入衛し、もっぱら京師を守るよう命じられ、敵が退くとさらに一秩を進めた。まもなく前総兵の劉漢とともに北沙灘に出て敵の巣を襲った。のち敵の侵入を許して戴罪となった。

馬蓮堡の空城の計

  • 嘉靖四十五年(1566年)七月、シリンアが十万騎で西路に侵入した。馬芳は馬蓮堡で迎え撃ったが堡が崩れていた。衆が塞ぐことを請うても許さず、櫓に登ることを請うても許さず、堡の四門を開き旗鼓を伏せ、人がいないかのように静まり返らせた。
  • 日暮れになると野焼きの火が天を焦がし、夜通し喚声が上がったが、馬芳は日中に寝たまま起きなかった。敵の斥候が次々にうかがったが真意をつかめなかった。
  • 翌日、馬芳ははっと起き上がり城壁に登って衆に指し示して言った、「彼らはしきりに後ろを振り返っている。逃げるつもりだ」と。兵を率いて追撃し、大破した。

隆慶年間の戦功

  • 隆慶初年(1567年)、ある者がシリンアのために、五万騎で蔚州を侵して馬芳を誘い出し、別の五万騎で宣府城を襲えば志を得られると謀った。馬芳はあらかじめ木を伐って城を囲んだので、敵は来ても上れず、そのまま去った。
  • まもなく参将の劉潭らを率いて獨石の塞外二百里に出て、長水海でその天幕を襲った。塞に帰る途中、追手が鞍子山で追いついたので迎え撃ち、再び大破した。子に千戸の蔭を賜った。
  • 馬芳は胆力と知恵があり敵情に通じ、行くところ兵卒に先んじた。一年に数度出兵して巣を襲い、自ら督戦することも副将を遣わすこともあった。家に壮健な者を養い、その死力を得ていた。
  • かつて三十人に命じて塞を四百里出させ、斬獲が多く敵は大いに震えた。そこで馬芳は軍を率いて大松林に至り、旧興和衛に駐屯し、高みに登って四方を望み、兵威を示して還った。

大同への転任と晩年

  • 当時、大同は宣府よりもさらに敵の被害が大きかった。総督の陳其學は畿輔が騒がされるのを恐れ、総兵官の趙岢に紫荊関を扼えさせたが、敵は懷仁・山陰の間を掠奪し放題となり、趙岢は三秩を降された。そこで馬芳と鎮を交替させた。
  • 俺答が転じて威遠を侵し危うく落ちかけたが、陳其學が胡鎮らを率いて救い、馬芳の軍も到着して十余日対峙し、敵は去った。
  • 馬芳は諸将に言った、「大同は宣府とは違う。敵とはわずか一枚の塀を隔てるだけで、いつ来るか分からない。大きく傷めつけなければならない」と。そこで兵を率いて右衛を出て威寧海子で戦い、これを破った。
  • その年、俺答が招撫に応じ、塞上は無事となった。
  • 萬曆初年、閲視侍郎の吳百朋が馬芳の贈賄の件を摘発し、閑居を命じられた。のち前軍都督府の僉書に起用された。順義王が賞を要求して盟約を破ると称したので、再び馬芳を用いて宣府を鎮させた。
  • 萬曆七年(1579年)、病により帰郷を乞い、二年後に没した。
  • 馬芳は行伍から身を起こし、十余年で大帥となった。膳房堡・朔州・登鷹巣・鴿子堂・龍門・萬全右衛・東嶺・孤山・土木・乾莊・坌道・張家堡・得勝堡・大沙灘で戦い、大小百十度に及んだ。身に数十の傷を負い、少数で多数を撃って大勝しないことがなく、部長数十人を生け捕り、斬首は数えきれず、威名は辺境を震わせ、一時の将帥の筆頭であった。
  • 石州城が陥落したとき、副将の田世威と参将の劉寶が死罪と判定された。馬芳はその取り消しを乞い、さらに子の蔭を返上して二将の罪を贖おうとしたが、御史に弾劾されて戒告の勅を受けた。のち田世威は再び将となったが、馬芳と会っても軽んじ、馬芳は取り合わなかった。識者はこれを高く評価した。

馬棟・馬林――馬芳の二子

  • 馬芳には二子があり、棟と林という。棟は都督にまで至ったが目立った事績はない。
  • 林は父の蔭により累任して大同参将となった。萬曆二十年(1592年)、順義王のチェリク(徹哩克)が史・車の二部長を縛って献じた際、林は敵を制した功により副総兵に進んだ。二十七年(1599年)、署都督僉事に抜擢されて遼東総兵官となった。
  • 林は文学を好み、詩を能くし書に巧みで、交遊には名士が多く、当時の評判は高く、自負するところも高かった。かつて辺務十策を上申したが、言葉が文吏に触れることが多く、握りつぶされて施行されなかった。
  • 税使の高淮が横暴であったので林は力を尽くして抗い、高淮が弾劾したため職を奪われた。給事中の侯先春が救おうと論じると、林は瘴癘の地への流刑に改められ、侯先春も二官を左遷された。久しくして赦に遇い免ぜられた。

馬林――尚間崖の敗戦

  • 遼左で兵を用いることになり、詔により林は旧官で従軍した。
  • 楊鎬が四路に兵を出したとき、林に一軍を率いて開原から三岔口に出させ、遊撃の竇永澄に北関の軍を監督させて並び進ませた。
  • 林の軍は尚間崖に至って営を結び、壕を掘り斥候を厳しくして自衛した。杜松の軍が敗れたと聞いて営を移そうとしたところ、大清の兵がすでに迫っていた。
  • そこで兵を還して別に営を立て、壕を三重に掘り、壕の外に火器を並べ、火器のさらに外に騎兵を配し、他の兵卒はみな下馬して方陣を組み、壕の内にも一軍を置き、西に飛芬山に営を立てた。
  • 杜松の軍がすでに壊滅していたので、大清の兵は勢いに乗じて林の軍に迫り、林が壕の内の軍をすでに壕の外の軍と合わせて陣していたのを見て、精騎を放って正面から突撃した。林の軍は支えきれず大敗し、副将の麻巖が戦死、林はわずか数騎で逃れた。死者は山谷を埋め、血が流れて尚間崖の下の水が赤くなった。
  • 大清はさらに兵を移して飛芬山を撃ち、僉事の潘宗顔らの一軍も壊滅した。北関の兵はこれを聞いて進もうとしなかった。

馬林――開原の陥落と戦死

  • 林は軍を失って「為事官(罪を負って職務を執る者)」に落とされ、開原を守らされた。
  • 当時、蒙古の宰桑ノムト(諾木圖)が林に助兵を約束していたので、林はこれと盟約を結び、それを恃んで備えを設けなかった。
  • その年六月、大清の兵が突然城下に臨んだ。林は衆を城外に並べ、少数の兵を分けて城壁に登らせた。
  • 大清の兵は楯と梯子を設けて攻め、別に精騎で東門外にある林の軍の営を撃ち破った。軍士が門を争って入ろうとしたので、その勢いに乗じて門を奪い、城を攻める兵も城を越えて入った。林の城外の軍はこれを見てみな逃げ出した。
  • 大清の兵は城を押さえて迎え撃ち、壕を渡れずにいた者をことごとく殲滅した。林および副将の于化龍、参将の高貞、遊撃の于守志、守備の何懋官らはみなここで死んだ。
  • まもなく都督同知を追贈され、世襲の蔭を二秩進められた。
  • 林は辺鎮を歴任したとはいえ強敵に当たった経験がなく大将の才がなかった。当路の者が虚名によって用いたので敗れたのである。

馬燃・馬熠・馬炯――馬林の子

  • 林には五子があり、燃・熠・炯・爌・飈という。燃と熠は尚間崖で戦死した。
  • 炯は天啟年間に湖廣総兵官として貴州の叛賊討伐に協力し、王三善に従って大方に至り、数戦して勝ったが、のち王三善が大敗して自殺すると、炯は敗走して帰り、病を得て没した。

馬爌――徐州・淮上での戦い

  • 爌は幼くして兵略を学んだ。天啟年間に遼東遊撃となり、督師閣部の孫承宗が、その父が王事に死んだことを理由に励まし用い、王楹に代わって中右所を守らせた。巡撫の袁崇煥が営制を改めると、旧官のまま前鋒左営を掌り、たびたび功があり、累進して副総兵となり徐州を守った。
  • 崇禎八年(1635年)正月、賊が鳳陽を陥れて大いに掠奪して去ると、爌は守備の駱舉とともに兵を率いて入り、恢復を報告してそのままその地を守った。
  • 八月、賊が河南を荒らしたので、総督の朱大典が潁・亳への移駐を命じ、事が収まって徐州に戻った。
  • 崇禎十年(1637年)、賊が桐城を侵すと、爌は救援に赴いて羅唱河でこれを破った。まもなく陵を守った功で一級を加えられた。
  • 帰徳と徐州の間に朱家厰という地があり、土着の賊がこれに拠って時々掠奪していたのを、爌が討ち滅ぼした。
  • 賊が固始を侵すと、朱大典は爌および遊撃の張士儀らに霍邱の西南を分けて守らせ、賊の東下を阻ませた。賊は六安へ走り、朱大典はさらに爌らを壽州の東に駐屯させて二陵の守りを兼ねさせた。
  • このころ長淮の南北はもっぱら陵寝を重んじており、爌は数年駆け回って幸いに失態がなかった。

馬爌――甘肅での戦死

  • 崇禎十二年(1639年)六月、総兵官に抜擢されて天津を鎮守した。久しくして甘肅に移鎮した。
  • 崇禎十五年(1642年)、三協の副将の王世寵・王加春・魯蔭昌らを督して叛いた蕃を討ち破り、首級七百余を斬り、三十八族を慰撫して還った。
  • その冬、督師の孫傳庭の召集の檄に応じなかったので弾劾された。帝は、爌が賊を討つに堪えるなら戴罪して功を図ることを許し、そうでなければ賜剣によって処断せよと命じた。爌が軍に至ると孫傳庭は罪を許した。のち再び逗留と濫りな掠奪で弾劾されたが、帝はなお戴罪して努めさせた。
  • 翌年秋、孫傳庭が関を出ようとしたとき、賊が内郷から商雒をうかがうとの情報があり、檄により爌は商州に移ってその北への侵入を阻んだ。まもなく孫傳庭の軍が壊滅し、爌は鎮に戻った。
  • 間もなく賊が延綏・寧夏を陥れ、ついで蘭州を陥れ、河を渡って甘州に至り、これを取り囲んだ。爌は巡撫の林曰瑞とともに力を尽くして固守したが、賊が雪の夜に乗じて穴を穿って登り、兵卒は寒さがひどくて戦えず、城はついに陥落した。爌・林曰瑞および中軍の哈維新・姚世儒はみなここで死んだ。
  • 弟の飈は沔陽州同知であったが、城が陥ちて同じく死んだ。爌の父子兄弟はみな国難に死んだのである。