明史卷二百十一 列傳第九十九 周尚文
字は彦章、西安後衛の人である周尚文(?–1548年)。十六歳で指揮同知を襲い、寘鐇の乱で黄河の渡口を封鎖して功を挙げ、寧夏・山西・延綏の各鎮を歴任した。気を負って文吏と衝突を繰り返し、嚴嵩の子の世蕃を面罵して恨みを買ったが、大同を鎮しては翁萬達・詹榮とともに戦守を計り、陽和から山西丫角山まで四百余里の辺牆と敵台千余を築いて北辺を支えた。明代を通じて総兵官で三公を加えられた唯一の人であり、没後は嚴嵩に恩恤を阻まれたが、穆宗の代に太傅を追贈され武襄と諡された。同巻には錦州衛出身の宿将、趙國忠が附されている。
年表(8件)
- 嘉靖元年1522年寧夏參將に転じ、まもなく涼州副総兵となる
- 嘉靖九年1530年寧夏総兵官に抜擢され、王瓊の辺牆築造を監督して屯田を開く
- 嘉靖二十一年1542年東官庁聴征総兵官となり、嚴世蕃を面罵して恨みを買う
- 嘉靖二十一年1542年秋に総兵官として大同を鎮し、糧餉と馬の増加を求めて叱責される
- 嘉靖二十七年1548年彌陀山で包囲された顧相らを救うため諸将を督して塞を出る
- 嘉靖二十七年1548年曹家莊で俺答を大破し太子太傅を兼ね、その年に七十五で没する
- 嘉靖八年1529年趙國忠が武会試に及第し、都指揮僉事に進んで靉陽を守備する
- 嘉靖三十一年1552年趙國忠が再び遼東を鎮し、錦州を侵した小王子ダラスを防ぎ退ける
出自と初期の武功
- 周尚文は字を彦章といい、西安後衛の人。幼くして書を読んで大意をおおむね解し、謀略に富み、騎射に長けた。十六歳で指揮同知を襲い、たびたび塞を出て功があり、指揮使に進んだ。
- 寘鐇が叛くと、黄河の渡口を封鎖して叛賊の丁廣らを捕らえ、推されて衛の事を掌った。関内で回の賊が四方に蜂起して南山に拠ったのを、順次平定した。
- 御史の劉天和が中官の廖當を弾劾して詔獄に繋がれた際、事が周尚文に及び、拷問して劉天和を引き込ませようとしたが、最後まで認めなかった。久しくしてようやく釈放された。
- のち階州を守備し、計略で叛いた蕃を捕らえ、署都指揮僉事に進み、甘肅遊撃将軍となった。
寧夏・涼州での戦い
- 嘉靖元年(1522年)、寧夏參將に転じ、まもなく都指揮同知に進んで涼州副総兵となった。
- 御史が莊浪を巡視中に不意に敵に遭遇したとき、周尚文はただちに軍を分けて御史を守らせ、自らは麾下を率いて射かけたので、敵は逃げ去った。
- かつて敵を追って塞を出たところ、敵の来援がいよいよ増え、周尚文の軍は半ばしか到着しておらず麾下はみな恐れた。周尚文は落ち着いて馬を下り鞍を解き、崖を背にして力戦し、殺傷は相当であった。部将の丁杲が来援してようやく敵が退いた。周尚文は重傷を負い、帰郷を願い出た。まもなく旧官に起用された。
- 濟農がしばしば氷を踏んで侵入したので、周尚文は百二十里の塀を築き、水を注いで凍らせ、氷が滑って上れないようにした。氷が解ければ力士に長い竿と鉄の鉤を持たせ、渡る者を引っかけて殺した。
- 嘉靖九年(1530年)、署都督僉事に抜擢され、寧夏総兵官となった。王瓊が辺牆を築く際、周尚文がその工事を監督し、あわせて水路を掘り屯田を開いたので、軍民が利を得た。
- 敵が西海を掠めて寧夏を通ったとき、巡撫の楊志學が兵を出して迎え撃つよう議したが、周尚文は従わず、弾劾されて職を解かれた。
山西・延綏と文吏との軋轢
- 久しくして山西副総兵に起用された。敵が偏頭関から岢嵐に向かうと、周尚文は三百里を転戦してこれを破り、子の君佐とともに負傷し、銀と幣を賜った。
- まもなく総兵官として延綏を鎮した。敵が紅山墩を侵すと力戦して破り、褒賞を受けた。濟農がさらに清平堡を大いに掠奪したため、俸を奪われた。
- 周尚文は将才に優れていたが、気を負って傲慢で、行く先々で文吏と張り合い、文吏もまたたびたび彼を挫いたので、ますます折り合いが悪かった。
- 巡撫の賈啟が周尚文を「老いてたわけている」と弾劾し、兵部が甘肅への転任を求めたが、帝は従わず、双方の俸を奪った。巡按の張光祖が二人を同じ地に置くのは無理だと述べたので、周尚文の任を解き、賈啟の官秩も落とした。
- 濟農が大挙して固原に至ったとき、劉天和はすでに総督となっており、周尚文を励まして功を立てさせた。周尚文は黒水苑で奮撃してその子の沙什王という者を殺し、首功百三十余を挙げ、都督同知となった。
嚴世蕃との確執と大同鎮守
- 嘉靖二十一年(1542年)、推薦により東官庁聴征総兵官兼僉後府事となった。嚴嵩が礼部尚書、その子の世蕃が後府都事で驕慢であったので、周尚文は面と向かって叱りつけ、弾劾しようとした。嚴嵩が詫びたので免れ、世蕃を治中に転じて周尚文を避けさせた。世蕃は骨髄に達するほど恨んだ。
- その秋、総兵官として大同を鎮し、糧餉と馬の増加を求めた。兵部が周尚文の請求は度を越していると述べ、詔で厳しく叱責されたところであった。
- さらに周尚文は巡撫の趙錦と折り合わず辞職を願ったが許されず、日々いがみ合った。御史の王三聘が他鎮への転任を求めたが、廷議は、大同は敵の要衝であり、周尚文はこれに事寄せて避けようとしているので、その奸計に乗ってはならないとして、趙錦を甘肅巡撫とした。
- 濟農が数万騎で前衛を侵すと、周尚文は黒山で戦ってその子のマハダイ(瑪哈岱)を殺し、涼城まで追撃して斬獲が多く、右都督に進んだ。
- のち敵が宣府から畿甸に迫り、大同の塞を出て北へ帰るのを周尚文が迎え撃ち、やや捕虜を得た。さらに敵が大挙して鵓鴿峪を侵し南下しようとしたときは、周尚文が陽和に備え、騎兵を四方に出して迎え撃ったので敵は逃げ去った。詔書を賜って労をねぎらわれた。
辺牆の構築と三公の加官
- 総督の翁萬達が辺牆の築造を議し、宣府西の陽和から大同関の山口まで二百余里を周尚文に委ねた。周尚文はさらに陽和以西から山西の丫角山まで、あわせて四百余里を築き、敵台千余を設け、屯田四万余頃を開き、軍を一万三千余増やした。
- 帝はその功を嘉し、左都督に進め、太子太保を加え、屯税を永久に免除した。
- 叛いて敵に投じた者が小王子を招いて辺を侵したとき、周尚文はその使者を探知した。太保を加えられ、子に錦衣世襲千戸の蔭を賜った。明代を通じて総兵官で三公を加えられたのは周尚文ただ一人である。
- はじめ俺答(諳達)および濟農の諸子が強盛で、諸辺は毎年その害を受け、大同がとりわけひどかった。周尚文が鎮に臨んでからは、総督の翁萬達、巡撫の詹榮とともに戦守を計画したので、辺の民は数年間肩の荷を下ろした。周尚文はさらに敵から離反した者を招いて敵の勢いを孤立させたので、帰服する者が相次いだ。
彌陀山の救援と最期
- 嘉靖二十七年(1548年)八月、俺答が五堡のあたりに伏兵を置いて指揮の顧相らを誘い出し、彌陀山で包囲した。
- 周尚文は急ぎ副総兵の林椿、参将の呂勇、遊撃の李梅および二子の君佐・君仁を督して塞を出て救援させ、包囲はようやく解けた。顧相および指揮の周奉、千戸の呂愷・郝經らはすでに戦没していた。
- 転戦して野口に至ったとき伏兵が突然現れ、決死の戦いでその長一人を斬った。一か月余り対峙してようやく敵が引き上げ、周尚文は伏兵を置いてその殿軍を討ってから還った。
- 周尚文の三人の子はいずれも罪により流されていたが、このとき父の功によって釈放された。
- 俺答が数万騎で宣府を侵すと、翁萬達の檄により周尚文が曹家莊で大破した。功を録して太子太傅を兼ね、賜与も厚かった。その年に没した。年七十五。
- 周尚文は清廉で節倹、士を愛して死力を得た。間諜をよく用いて敵中の事情を細かく知っていたので、戦えば功があった。
- 嘉靖二十年以後、俺答がしきりに辺を騒がせたが、宿将の王效・馬永・梁震はいずれも先に世を去り、周尚文だけが残って威名が最も盛んであった。嚴嵩父子は功が高いのを妬んで陥れようと図ったが、帝がまさに強敵に当たらせようとしていたので讒言は通らなかった。
- 没すると恩恤の典が差し止められて与えられず、給事中の沈束がそれを言上したが、嚴嵩が帝の怒りをあおって沈束を詔獄に閉じ込めた。穆宗が立ってようやく太傅を追贈され、武襄と諡された。
趙國忠――遼東・宣府での戦い
- 趙國忠は字を伯進といい、錦州衛の人。指揮の職を継ぎ、嘉靖八年(1529年)に武会試に及第して都指揮僉事に進み、靉陽を守備した。
- 錦義右參將に抜擢され、続けて敵を破って官秩を加えられ金幣を賜り、署都督僉事に進んで遼東総兵官となった。敵を防いで功があり、首級百七十余を斬って都督同知に進み、格別の賜与を受けた。
- 敵が八百騎で鴉鶻関から侵入し、都指揮の康雲が戦死、副将三人も死んだので、詔により趙國忠は戴罪して功を立てることとされた。のち事に坐して弾劾され、白衣のまま職務を執ることを命じられた。守備の張文瀚が敵を防いで死ぬと、趙國忠は任を解かれた。
- まもなく西官庁右參將に起用され、都督僉事を授けられて東官庁を提督した。
- 俺答が大挙して宣府を侵し、総兵官の趙卿が戦に堪えなかったので趙國忠が代わった。坌道に至ったとき、敵はすでに周尚文に破られて東へ走っていた。趙國忠は参将の孫勇に精鋭を率いさせて大滹沱で迎撃して破り、周尚文と道を分けて撃ったので敵はことごとく逃げた。功により賜与を受けたが、その後敵の侵入を許して俸二等を降された。
趙國忠――京師の防衛と再度の遼東鎮守
- 俺答が京師に迫ると、趙國忠は入って防衛にあたり、沙河の北に陣した。のち諸陵の護衛に移った。敵の騎兵が天壽山に至ったが、趙國忠が紅門の前に布陣しているのを見て入ろうとしなかった。
- 嘉靖三十一年(1552年)、再び遼東を鎮した。小王子のダラス(達喇蘇)が数万騎で錦州を侵したのを防ぎ退けた。翌年、獅子口に侵入すると参将の李廣らを督して塞外へ追い出し、五十人を斬り捕らえた。
- 敵がたびたび榆林堡・高臺・蛤利河に侵入したのを、前後して不意打ちして首功百五十余を挙げ、官秩一等を進めた。まもなく論じられて罷免された。
- 趙國忠は戦い巧みで、射れば札を貫き、将として威厳があった。二鎮を歴任して亭障を修め士馬を訓練し、辺防はこれに頼った。