明史卷二百十一 列傳第九十九 王效

延綏・寧夏での勝利

  • 王效は延綏の人。書を読んで文辞を能くし、兵法に通じ、騎射は人並みはずれていた。武会試に合格した。
  • 嘉靖年間、都指揮僉事を累任し、延綏右參將となった。神木の塞を出て敵の尚納山を襲い、斬獲が多かった。まもなく延綏副総兵に抜擢された。
  • 嘉靖十一年(1532年)冬、署都督僉事に進み、総兵官として周尚文に代わって寧夏を鎮した。
  • 濟農が鎮遠関を侵すと、王效は梁震とともに柳門で破り、蜂窝山まで追撃して河に追い落とし、首級百四十余を斬った。璽書で褒賞を受けた。
  • 濟農が十万騎で再び花馬池をうかがうと、王效と梁震が阻んで入れさせなかった。敵は転じて乾溝を侵し、梁震が兵を分けて撃ったので固原に向かい、総兵官の劉文が力戦した。敵は青山峴に向かい、安定・會寧を大いに掠奪した。
  • 王效はちょうど別の部隊を鼠湖で破って沙湖まで追っていたが、急ぎ軍を転じて援け、安定で破り、再び靈州で破って、前後に首級百五十余を斬った。

功の論定と昇進

  • 三辺を総制する尚書の唐龍が大捷として報告したが、巡按御史は諸将の失態の罪を奏した。給事中の戚賢が調査に赴き、次のように奏した。安定・會寧の二縣で殺掠が多かったのは劉文の罪に当たるが、その麾下はわずか八千で、道を倍して険を冒し、八、九万の勢いに乗る敵に決死の戦いを挑んだのだから、功で罪を贖わせるべきである。梁震の乾溝、王效の鼠湖・沙湖・安定・靈州の戦いは、孤軍八百で敵一万余に当たったもので、いずれも功として録するに足りる。唐龍もまた調度がよかった、と。
  • 詔により劉文は職を奪われ、梁震と王效には銀幣が賜られ、唐龍の子一人が国子監に入った。
  • この役は功が多かったのに執政が抑えたので賞が薄く、御史の周鈇がそれを言上したため、唐龍・王效・梁震にそれぞれ一級が加えられた。
  • 王效は都督同知に進み、まもなく清水営の功で右都督に進んだ。敵が軽騎で寧夏を侵すと、王效は打鎧口に伏兵を置き、半ば入ったところで横合いから撃って破り、河を守る兵も戦艦で渡って逃げる者を迎え撃って斬った。捷報が届き、左都督に進んだ。
  • 敵は憤って伏兵を設け、誘い出して敗ったので、王效は右都督に降された。
  • 嘉靖十六年(1537年)、宣府に移鎮し、翌年没した。武襄と諡された。
  • 王效は言行を慎み、用兵は謀と勇を兼ね、威名は西陲に響き、馬永・梁震・周尚文とともに名将と称された。

劉文

  • 劉文は陽和衛の人。指揮同知を襲い、たびたび遷って署都督僉事・涼州右副総兵となった。
  • 嘉靖八年(1529年)、総兵官として陝西を鎮し、洮岷の叛いた蕃の若婁・巴爾ら諸族を大破して首級三百六十余を斬った。
  • 十一年(1532年)、敵が西を掠奪して帰る途中、寧夏の河東を侵そうとしたのを撃ち破った。前功と合わせて都督同知に進んだ。のち職を失ったが、起用されて延綏を鎮し、甘肅に改まった。没して同じく武襄と諡された。