明史卷二百八 列傳第九十六 劉繪

出自と人事についての弾劾

  • 劉繪は字を子素、また一字を少質といい、光州の人。祖父の進は太僕少卿であった。
  • 繪は背が高く髯を長く伸ばし、磊落で奇気を負い、剣術を好み、六石の弓を引くほどの力があった。鄉試に首席で合格し、嘉靖十四年(1535年)の進士となり、行人に任じられ、户科給事中に改められた。
  • 二十年(1541年)、両京の言官に会同して辺境の才を推挙せよとの詔が下った。給事中の邢如黙らが毛伯温・劉天和ら二十人を推薦し、その中に前の御史の段汝礪、副都御史の翟瓚、參議の王洙が入っていた。
  • 繪は言上した。汝礪は大學士翟鑾の姻戚であり、瓚と洙は夏言の指図によるものである。如黙は衆議を排してこれを推薦した。宰相の臣が権を頼んで言官を抑え、言官が勢いを恐れて公議に背く。上下が雷同するのは社稷の福ではない。鑾を罷免して言を罪し、如黙を私に阿り徒党を植える者への戒めとされたい、と。
  • 帝はその言を是とし、如黙を外に出した。言はちょうど政を罷めたところで、鑾は不問に付された。

辺防についての建言と晩年

  • 翌年(1542年)、寇が大挙して山西に侵入した。繪は上疏して言った。諳達(アルタン)は今まさに強盛で、必ず腹心の患いとなる。議者は守るべきで戦うべきでないと言うので、辺将は多く自らの保全を図り、あるいは落伍した騎兵の首を拾って戦功と報じている。総督・巡撫の諸臣もただ士馬を並べて要害を守るだけで、清野と称して実は鋒先を避け、険を守ると称して実は自らを守っているにすぎない。
  • どうか翟鵬に専任させて臨機の処置を許し、宣府・大同・山西の士馬を馳せ集めて合わせて十七、八万人とし、三路から同時に進ませ、進むのみで退かぬようにされたい。寇が多くても日を数えて平らげられよう、と。
  • 帝はその言を壮とし、鵬に臨機の権を与えて都指揮以下を斬れるようにさせた。しかし鵬は結局、塞外に出ることができなかった。
  • ほどなく、山西巡撫の劉臬が夏言と結んでいると弾劾し、あわせて吏部尚書の許瓚と宣府巡撫の楚書を罷免するよう請うた。臬と書はこれによって職を去った。
  • 繪は二度にわたって夏言を弾劾したので、言に恨まれ、重慶知府として出された。土官が地を争って仇となっていたが、檄を出して諭すとただちに収まった。
  • 上官がこぞって推薦したが、言が再び政府に入ったため、言者に指図して論罪させ罷免させた。家に居ること二十年で卒した。

劉黄裳(劉繪の子)

  • 子の黄裳は兵部員外郎となった。倭が朝鮮を陥れると、侍郎の宋應昌の軍務を賛画するよう命じられた。鴨綠江を渡って平壤に至り、賊兵を大いに破った。賊が逃げると黄裳は追撃し、続けざまにこれを破った。功を記録されて郎中に進んだ。