出自と初期の建言
- 黎貫は字を一卿といい、從化の人。正徳十二年(1517年)の進士となり、庶吉士に改められ、御史に任じられた。
- 福建で文書の点検(刷卷)を行い、鎮守内官の尚春が官の帑を侵した状を弾劾し、ことごとく取り戻させた。
- 世宗が継統すると、貫は起居注の制を復活し、詞臣に章奏を分類編集させて纂述に備えるよう請い、聴き入れられた。
- 即位の詔書で四方の貢献が禁じられたのに、鎮守の中官は従来どおり貢を進めた。貫は言上した。陛下の明詔が発せられたばかりなのに、内臣たちは曲説を弄して私を営み、恩を求め寵を固めている。朝命を借りて徴取するものを「額」と称し、自ら携えて献ずるものを「額外」と称して百姓を欺き虐げ、朝廷の恩沢を堰き止めて流れないようにしている。これでは大信を明らかにし君徳を輝かせる所以ではない、と。
蔣輪と賦税についての建言
- 嘉靖二年(1523年)、帝が玉田伯の蔣輪の請いに従って承天に興獻帝の家廟を立て、輪の子の榮に祭祀を奉じさせた。貫は「陛下は一人の諂う臣の説を信じて祭祀の事を外戚に委ねられた。神は同類でない者の供物を享けない。獻帝は必ずこれを吐き出されよう」と言上したが、聴かれなかった。
- ほどなく疏を上げて言った。国初の夏秋二税は麦が四百七十一万であったのが今は九万減り、米が二千四百七十三万であったのが今は二百五十万減っている。歳入は日ごとに減り、歳出は日ごとに増えている。担当官に命じて祖宗以来の賦の額と今日の経費の数を通して調べさせ、帳簿にして上聞されたい。賦の収入に限りがあることが分かれば、費用を節せずにはいられない、と。帝はこれを嘉納した。
孔子の祀典改変への反対と失脚
- 江西の巡按として出た後、父の喪で帰郷した。久しくしてもとの官で起用された。
- ちょうど帝が張孚敬の議に従い、孔子の王号を廃して先師と改称し、あわせて籩豆と佾舞の数を減らしていた。編修の徐階が諫めて謫され、帝は自ら『改正祀典説』を作って廷臣に頒示した。孚敬はさらに『祀典或問』を作って帝意に迎合した。
- 議はすでに定まっていたが、貫は同僚を率いて合同の疏でこれを争った。帝は激怒して言った。「貫らは、朕がすでに皇考を皇帝と尊んだのに孔子だけが王と称せられぬわけがあるか、と言うのか。奸逆はなはだしい。ことごとく法司に下して取り調べよ」と。
- そこで都御史の汪鋐が言上した。近ごろ言官は事を論じるたびに衆を頼んで人を圧し、「これは天下の公議だ」と言う。しかし言い出したのはただ一人にすぎない。議を唱えた者を追及し、その罪を明らかに正されたい、と。帝はそのとおりだとした。
- 後に刑部尚書の許讚らがその獄の判断を上申し、贖罪の杖刑として職に復すべきだとしたが、帝は特に貫を庶民に落とすよう命じた。久しくして家で卒した。
王汝梅(附伝)
- 貫らが上疏したとき、禮科都給事中で華陽の人である王汝梅もまた同僚を率いて論じ、こう述べた。陛下が万機のかたわら典禮に心を注がれるのは、まことに立派なことである。しかし事を起こそうとする臣が風を望んで次々に現れ、今日はある制を廃すべきだと一議を献じ、明日はある制を復すべきだと一説を進め、国家はこれから多事になるのが心配だ。まして祖宗の成法は百六十年守られてきた。たとえ古に及ばぬところが少しあっても、それに従って行うのは過ちではない。なぜあれこれと改変を事とする必要があるのか、と。
- 帝は奏を見て旨に違うと斥け、『祀典説』を示した。
- 汝梅は字を濟元といい、行人から禮科都給事中に至った。八年(1529年)二月、災異によって言を求められたとき、汝梅は言上した。近ごろの章奏は迎合が多いので、忠と佞を区別し諂いの言葉を信じられぬようにされたい。大臣の奏事は近ごろ宮中に留め置かれることが多いので、ことごとく公論に付されたい。人主の学問は文辞の作成を重んじるものではないのに、いま一つの事を行うたびに宸翰を煩わされるのは、いささか軽々しい。祖宗の故事に倣って時に平臺に出御し、宰執を召見して大議を面前で決せられれば、筆札の労も省け、目を塞がれる害も絶てる、と。疏は旨に逆らった。
- 夏言が天地の分祀を請うたときも、汝梅は重ねて同僚とともに力争した。ほどなく浙江參政として出され、在官のまま卒した。