明史卷二百八 列傳第九十六 余珊
字は徳輝、桐城の人である余珊。正徳三年の進士で、御史として翰林の濫留や帝の義子・西僧の弊を論じ、長蘆の塩務では中官の不正を暴いて誣告され詔獄に下された。世宗の即位後に江西僉事として梅花峒の賊を平らげ、四川副使となった。嘉靖四年、詔に応じて紀綱の頽れ・風俗の壊れ・国勢の衰え・外裔の強さ・邦本の揺らぎ・人材の凋落・言路の閉塞・邪正の混同・君臣の乖離・災異の到来という「十漸」を一万四千言にわたって陳べ、輔弼の第一の人物すなわち費宏を名指しで退けるよう求めた。己を律することが清厳で、官にあっては威と恵があり、四川按察使で終わった。
出自と初期
- 余珊は字を徳輝といい、桐城の人。正徳三年(1508年)の進士となり、行人に任じられ、御史に抜擢された。
- 庶吉士の許成名らが教習を終えたとき、翰林に留められた者が十七人もいた。珊はこれを濫用として疏で論じ、言葉は内閣に及んだので容れられなかった。
- 乾清宮が火災に遭うと、疏で弊政を陳べ、義子(帝の義子とされた者たち)や西僧のことの誤りをはっきりと指弾した。
- 長蘆の塩務を巡按したとき、中官の不正な利得を暴いたが、逆に誣告されて捕縛され詔獄に下された。安陸判官に落とされ、澧州知州に移った。
- 世宗が立つと江西僉事に抜擢され、梅花峒の賊を討ち平らげた。四川副使に遷り、威州・茂州の兵備を担当した。
嘉靖四年の「十漸」の疏
- 嘉靖四年(1525年)二月、詔に応じて「十漸」(十の兆し)を陳べた。その大要は次のとおりである。
-
陛下には堯・舜・湯・武の資質がありながら、稷・契・伊尹・周公のような輔佐がなく、時事が次第に有終の美を得られなくなっている点が十ある、と。
-
第一、紀綱の頽れ。正徳のあいだ逆賊の劉瑾が権を専らにし、義子どもが政を乱して、紀綱が何であるかも分からなくなった。幸い陛下が起ってこれを振るい直された。ところが間もなく事は因循を好み、政は多く安直になり、名と実が食い違い、宮中と府中が別々になって、乱れもたつき、朝廷にあるようで朝廷になく、宮省にあるようで宮省にない。ついに天子はその心を心とし、百官万民もそれぞれ自分の心を心とするに至った。
- 第二、風俗の壊れ。正徳のあいだ士大夫は廉恥に乏しく権門に走り寄った。幸い陛下が起ってこれを奮い立たせられた。しかし今は、先に去った者が戻り、来た者は去らない。世に浮き沈みするだけの人物が銓衡(人事)を掌り、まず柔弱で油のようになめらかな者、富貴を重んじ名節を軽んずる者を取って位に列ねる。そのため諂いが風となり廉恥の道は薄れた。ひどいのは侯伯が糺弾を専らにし、罷免された吏が礼楽を議し、市の門が再び開かれて商売が旧に復していることだ。
- 第三、国勢の衰え。正徳のあいだ国の権柄は下に移り、王の威霊は振るわず、そのために安化・南昌の変が起きた。陛下が起ってこれを整え粛されたおかげである。ところが辺塞の戍卒は近ごろますます驕り放題である。かつて許巡撫を殺したのを姑息に済ませたので、こんど張巡撫を殺して真似をした。かつて賈參將を縛って威を示したのを、近ごろまた桂總兵を縛って恨みを晴らした。そのため榆関の妖賊がこれに倣って主事を殺し、北辺の庫吏が真似て県官を害した。陛下は俗儒の姑息な議論に惑い、俗吏の権宜の計に引きずられ、ついに廟堂の号令が二三の戍卒の口から出るようにさせてしまった。
- 第四、外裔の強さ。逆賊の劉瑾以来、賄賂で将帥が入れ替えられたため辺防はことごとく壊れた。陛下が起って厳しく引き締められたが、積年の弊は久しく、たちまちには回復できない。いま朶顔は遼海にうろつき、羗戎は西川で跳梁し、北狄は沙漠を蹂躙し、寇の勢いは盛んである。それなのに禄を食む者どもは早くに見通して制御の策を求めようとせず、鎮静という虚名を借りて無能の実を覆い隠す。はなはだしきは戦勝を偽り飾り、みだりに褒賞を求め、功労を誇大にして官階を高く得ている。辺塞の多事は日ごとにひどくなっている。
- 第五、邦本の揺らぎ。逆賊の劉瑾以来、天下の脂膏を尽くして権貴の家に運び込ませた。だから劉・趙・藍・鄢の乱が起きた。陛下が起ってこれを保護された。ところが近年、黄紙で免除を令じながら白紙で取り立て、額外の徴収は鶏や豚にまで及び、織造の入用のために自ら商人のまねをしている。江淮では母子が食い合い、兖州・豫州では盗賊が横行し、川・陝・湖・貴は兵糧の供給に疲弊し、田野は嘆きの声に満ちて生を楽しむ心がない。
- 第六、人材の凋落。正徳朝には士大夫が禍を蒙り、国家はほとんど空になった。幸い陛下が起って彼らを収め用いられた。ところが間もなく、狂直な言が一度発せられればただちに斥けられる。かつては外任に落とされる程度だったのが、いまは遠方の荒地に編配され、かつては終身禁錮どまりだったのが、いまは殿陛で鞭打ち殺される。吕柟・鄒守益らが去って殿閣は空になり、顧清・汪俊らが去って部寺は空になり、張原・胡瓊らが死んで言路は空になった。時に一、二の忠直の士がいても権奸に排斥されて遠ざけられ、通じることができない。そのため陛下の耳は騒がしく目はくらみ、いつのまにか鮑魚の店の中にいるようになっても自分では気づかれない。
- 第七、言路の閉塞。正徳朝には奸邪が代わる代わる進み、忠諫は聞かれなかった。幸い陛下が起って開き通じられた。ところが時を経ぬうちにこの風がまた現れた。心を下すことを懲りず、耳に逆らう言に憤って顔色に出される。剽窃した説でなければ言葉で人を屈服させ、当て推量で人を詐欺だと疑う。朝に一通の封事を出せば暮れには千里の外へ流され、はなはだしきは三木を負い頭に袋をかぶせられ、九泉の下で涙をのむ。
- 第八、邪正の混同。正徳朝には忠賢が排斥され、天下は危うくなりかけた。陛下が起って主宰されたおかげである。ところが一瞬のうちに佞邪の者が隙に乗じて起ち、六芸をよそおって奸を飾り、周官に仮託して漢の政を奪う。堅白同異の弁を弄し、模稜として両可を言う。これこそ大奸は忠に似、大詐は信に似るというもので、王莽が下士であったころに本心を隠し、王安石が入相の初めに垢まみれの顔をしていたのと同じである。聖賢がいたとしても誰が見分けられよう。臣は正が邪に敵わず、陰の群れが日々に盛んになるのを恐れる。
- 第九、君臣の乖離。正徳の世には大臣は日に疎んじられ小人は日に親しまれ、政事は乱れた。陛下が統を継がれ、堂廉が再び親しくなった。ところが大禮の議が起こって以来、たまたま聖意に添わなかった者は、譴責され謫され、鞭打たれ、流され、必ず一網打尽にされてやまない。そのため小人は隙をうかがい、巧みに発して奇しくも的中させ、主上の好みに投じて功名を釣り上げる。陛下は先入をもって主とされるので、順う者はことごとく合い、逆らう者はことごとく怒りを買う。そのため大臣は様子をうかがい、小臣は畏れて、上下は背き合い、次第に孤立が定着して、上下相交わる泰の風は絶えてしまった。
-
第十、災異の到来。正徳の世には天が鳴り地が震え、物の怪や人の妖が一年として絶えなかった。陛下が統を継がれてから災異は止んだ。ところが近年、雨と雹が禽獣を殺し、雷風が樹や家を引き抜き、婦人が両頭の子を産み、昼が夜のように暗くなること限りなく、四方の旱と水害の報告が絶えない。正徳の末とどこが違うのか。しかも京師では陰霾の気が太陽に迫り、白昼も薄暗く輝きがまれである。これがとりわけ恐るべきことだ。
-
この十のうち一つでもあれば天子は四海を保てない。陛下は聖明であるのに、なぜこうなったのか。輔弼の臣が招いたのではないか。いま輔弼の第一の人物を見るに、ただ奸佞で位に居ながら食を得るのみ、恩を頼みとして、上は天変を激発させ、下は民の災いを招き、中は人望を失っている。臣は彼が天下第一流の人物でないと知っている。それなのに陛下は信任され、魚が腐り果てるまでやめられない。速やかにその人を退け、文武を兼ねた才として前の大學士楊一清、老成で重厚な人として今の大學士石珤のような者を求め、ともに左右に置かれれば、弊政は除かれ天下は治まるであろう。
-
また臣が聞くところ、獻皇帝は賢を好み士に身を低くし、人を容れ人を恕したことは天下が共に知るところである。いま禮を議した諸臣は一言でも合わなければ、たちまち悖逆の名を着せられ、謫され配され死に追いやられ、朝廷は空になった。これが獻皇帝の御心であろうか。もしその御心でないなら、天下を挙げて尊んでも意味がない。陛下はなぜ彼らを起用し、清廟に馳せ仕えさせて獻皇帝の在天の霊を慰められないのか。
-
疏は繰り返しを重ねて一万四千言に及び、きわめて痛切であった。帝はこれを担当官に回した。指弾された「輔弼の第一の人物」とは費宏のことである。
晩年
- 珊は己を律することが清らかで厳しく、官にあっては威と恵があった。外艱(母の喪)で帰ると、士民は彼を名宦の祠に祀った。後に副使の胡東臯がその祠に詣で、ひとり珊の像を顧みて「これは私の師だ」と嘆じた。
- 喪が明けてもとの官で廣東に赴任し、四川按察使で終わった。
汪珊(附伝)――嘉靖元年の「十漸」の疏
- これに先立ち、御史の汪珊という者が嘉靖元年(1522年)七月に「十漸」を陳べる疏を上げていた。その大要は次のとおりである。
- 陛下が即位された当初、天下は喜んで治世を望んだが、近ごろは次第に初めのようでなくなった。
- 初めは事ごとに独断されたが、いまは外戚や側近が密かに移し取っている。
- 初めは事ごとに大臣に諮問されたが、いまは礼遇こそ厚くても実意は日ごとに疎い。
- 初めは正典によらぬ淫祠をすべて廃されたが、いまは少しずつ復活が議されている。
- 初めは玩好の品を退けられたが、いまは教坊の諸司が新しい曲や巧みな技を献じている。
- 初めは日々奏章を御覧になったが、いまは放置して読まず、側近に可否を決めさせておられる。
- 初めは無駄な食禄と経費を整理されたが、いまは騰驤の勇士については実数の点検が行われず、御馬の実数も調べられない。
- 初めは錦衣衛の濫任を整理されたが、いまは大臣や近侍が擁立の功で世襲の廕を授かり、旧邸の旗校がことごとく親軍に補されている。
- 初めは中官が罪を犯せば定法どおりに懲らされたが、いまは犯した者の多くが死を免れ、朝廷こぞって争っても通らない。
- 初めは中官に過失があれば再び任用されなかったが、いまは鎮守・守備の職を運動して入れ替え、僥倖の門が再び開かれている。
- 初めは諫めを流れるように容れられたが、いまは政事の不都合を言官が論奏しても、ただ「旨がある」と言うばかりで、傲然と人を拒んでおられる。
- 帝はその説をかなり容れた。ほどなく河南副使として出され、官を歴任して南京户部右侍郎に至った。
- 珊は字を徳聲といい、貴池の人。正徳六年(1511年)の進士。貴州を巡撫したとき、都匀の叛いた苗を討って功があった。