明史卷二百七 列傳第九十五 謝廷□

出自と諫言、南巡への諫止

  • 謝廷□(底本欠字)は字を子佩といい、富順の人。嘉靖十一年(1532年)の進士で、新喻知縣を経て吏科給事中に任じられた。
  • 御史の胡鰲が、京師では妓楼と芸人が入り混じっているとして、五城に命じ教坊・両院に属さぬ者を追い払うよう請い、都御史の王廷相らも可とした。帝は鰲の言葉を猥雑として嫌い、鹽城丞に落とし、廷相らの俸を奪った。廷□がこれを救おうとして、詔により厳しく責められた。
  • 雷が謹身殿を震わせたとき、反省すべき数事を上疏したが、言葉が率直であったため、帝は疏の中の誤字を摘んでその俸を停めた。
  • 嘉靖十八年(1539年)、同官の曾烶・李逢・周珫とともに帝の南巡を諫めて旨に忤らった。その後、給事中の戴嘉猷が急ぎ上疏して還御を請うたが、車駕はすでに発していた。帝は大いに怒り、還るとすぐに嘉猷および廷□らを捕らえて詔獄に下し、廷□を雲南典史に落とした。

致仕後の隠棲と加官

  • しばしば遷って浙江僉事となったが、侍養のため帰郷し、そのまま出仕しなかった。
  • 隆慶元年(1567年)に旧官の山西のポストで起用され、まもなく河南右參議に抜擢されたが、いずれも拝受しなかった。吏部はその行いを高しとし、新しい官階のまま老を養うことを請い、許された。
  • 萬曆改元(1573年)、四川巡撫の曾省吾が、廷□は隠居三十年、家は四壁のみで道を楽しみ著書に励んでいる、特に京官の位を加えて士林を励ますべきだと奏し、詔してただちに太僕少卿を加えた。さらに数年して没した。