出自と雲南の官選についての建言
- 包節は字を元達といい、先祖は嘉興の人で、父の代に華亭へ移った。祖父の鼎は池州知府で、政治は清簡、早くに退官を願い出て郷里に重んじられた。
- 節は五歳で父を失い、母が自ら教育した。嘉靖十一年(1532年)の進士に登り、東昌推官に任じられ、入って御史となった。
- 兵部尚書の張瓚の貪汚を弾劾した。
- 雲南按察に出たとき、当時、任官する者は荒れた辺地を憚って赴任したがらず、そこで「告げ出れば遠方に赴任させる」という制度が設けられていた。節は、この輩は好んで荒地へ行くのだから、年老いて衰えているか家が貧しくて俸禄を急ぐかであり、志は自分のためで民を恤む心はない、滇中の長吏に人材が乏しいのはこのためである、今後は近隣から選人を充て、州縣の佐貳にこの輩を用いれば、吏治も挙がろう、と述べた。吏部は節の言を雲南・貴州・両廣に一律に適用するよう請い、裁可された。
- 病により帰り、旧官として起用された。
廖斌との衝突と莊浪衛への永戍
- 再び湖廣を按察したとき、顯陵守備の中官廖斌が威福をほしいままにしていた。節がこれを縛ろうとしたが、話が先に漏れた。斌は節が陵に参謁する時を待って、わざと膳の供物を献じておいて急に撤去させ、節が追い払ったのだと偽った。
- 鍾□(底本欠字)の民である王憲が、斌が奸悪な豪族の周章らを庇っていると告発したので、節は章を捕らえて杖の下に打ち殺した。斌はいよいよ怒り、節は正月元旦に陵に参謁せず翌日にようやく参謁した、進膳の時にあたって傍らに立たず、侮り怠って大不敬である、と奏した。奏が入ってから、節はようやく斌の以前の件を奏した。
- 帝は大いに怒り、節を罪に当てて詔獄に逮捕し、拷問のうえ莊浪衛へ永戍とした。
- 莊浪は極辺で、荒れた家屋と崩れた垣ばかりであったが、節は平然と暮らした。ただ母を思い、最後まで養えなかったことを自ら傷んで日々涙を飲んだ。母の訃報が届くと昼夜哭し、さらに弟の孝の死を聞くと胸を打って「誰が私に代わって祀りを奉ずるのか」と言い、いよいよ悲しんで病没した。遺言により喪服のまま殮された。
包孝――南京御史としての弾劾と母への侍養
- 孝は字を元愛といい、節に三年遅れて進士となった。中書舍人から南京御史となった。
- 禮部尚書の温仁和が辛丑(嘉靖二十年、1541年)の会試を主宰した際に不正があったと論じ、あわせて庶子の童承叙、贊善の郜希顔、編修の袁煒を弾劾したが、帝はいずれも取り上げなかった。まもなく巡撫の孫襘・吳瀚を弾劾し、瀚は罷免された。
- 孝の兄弟は南北の台に分かれて仕え、ともに気骨を示し、また至情の人であった。節は北で官に就いて母を養えなかったので、孝が侍養のために帰郷した。母が亡くなると哀しみのあまり痩せ衰え、喪を終えぬうちに没した。節もそれに続いて没した。当時ともにその孝が称えられた。