明史卷二百七 列傳第九十五 劉安

「明」と「察」を論じた上疏と獄

  • 劉安は字を汝勉といい、慈谿の人。嘉靖五年(1526年)の進士で、南京工部主事に任じられ、河南道御史に転じた。
  • 台に入って一か月で上疏した。その論旨は、君主は明を貴ぶが察を貴ばない、察は明ではない、君主が察を明と取り違えれば天下は多事になる、というもの。
  • 陛下は臨御八年(嘉靖八年、1529年)になるが治まらないのは、治功が明察に損なわれているためだ、と述べた。治は緩やかに図るべきで急に取るものではなく、休養によって治めるべきで督責によるものではない、急切の心で督責の政を行うため、有司の仕事に自ら手を出し臣下の失を摘発し、令を出しては翻し、信じたかと思えば急に疑う、大小の臣工は過ちの弁明に追われて位に安んじられない、これでは誰が陛下のために長久の策を建てられようか、と論じた。
  • さらに、朝廷は四方の基準であり、内で君臣の風がこうであれば、外の撫按・守令もこれに響応し、上が苛察で縛れば下も苛察で応じる、民が窮すれば盗の源となり、食が乏しければ強兵の理はない、と述べた。
  • そのうえで、今は明天子が上で綜べ核し、百官が下で刷新して、積年の弊は十のうち九まで除かれた、足りないのは元気だけである、として、大らかに包容する度量を大きくし、根本の計を重んじ、繁文を省いて急務を先にし、細事を簡にして遠謀を大きくし、一人の毀誉で喜怒せず、一言の順逆で行止を決めず、老成の臣を長く任じ言官を寛やかに容れれば、君臣上下が一徳一心となり、人はみな位に安んじ事はみな才を尽くして、雍熙太和の治も遠くない、と結んだ。
  • 帝は疏を読んで大いに怒り、錦衣衛に逮捕させて拷問した。兵科給事中の胡堯時が救おうとして、ともに逮捕され取り調べを受けた。判決では堯時を攸縣主簿、安を餘干典史に落とした。
  • 安は決壊した堤数十丈を築き、人々は「劉公堤」と称した。再び遷って長沙同知となり、鳳陽知府に抜擢された。治績がとりわけ優れたため正品の服を賜り、憂(親の喪)によって帰り、没した。