明史卷二百六 列傳第九十四 程啟充

軍功の五弊を論ずる

  • 程啟充は字を以道といい、嘉定州の人。正徳三年(1508年)の進士で、三原知縣を除せられ、入って御史となった。
  • 嬖倖の子弟や家人が軍功を濫りに冒し、都督にまで至って蟒玉を賜る者があった。啟充は述べた。定制では軍職の授官はすべて首功によることになっている。今は倖門が大いに開かれ、買功・冒功・寄名・竄名・併功の弊がある。権要の家が軍士に金帛を賄って獲た首級を手に入れるのが買功。鋒に衝って敵の首を斬ったのは甲なのに乙がそれを取り、はなはだしくは平民を殺して賊としたことにするのが冒功。門を一歩も出ないのに名が行伍に隷しているのが寄名。掾吏に賄して文冊を書き改めさせるのが竄名。一人の身で一日のうちに京師を出もしないのに東西南北の四か所で功を報じ、名を按じて級を累ね、たちまち高い階に至るのが併功。いずれも祖宗の法を壊し将士の体面を解くもので、厳しく察し革めていただきたい、と。帝は用いなかった。
  • 十一年(1516年)の正旦、群臣が待漏して入賀したが、日晡(夕方)になってようやく礼が終わり、朝が散じたときには既に昏夜であった。衆が奔り出て転倒し踏み合い、将軍の趙朗という者が禁門で死んだ。啟充はその有様を具さに奏し、帝が昧爽(夜明け)に視朝して明作の治を図られるよう請うた。
  • 都督の馬昂が身ごもった妹を進上したとき、啟充らは力めて争った。ついで冗官・冗兵・冗費の弊を極言し、通じて革罷するよう乞うた。帝はいずれも省みなかった。
  • 騰驤四衛の軍で各衛に改編された者は詔によって撤回されたのに、各衛に遺された籍がなお糧を支給され、倉の貯えを八十七万余石も費やしていた。啟充が力説して、この冒支の弊は絶えた。喪により帰郷した。

嘉靖初の直言と謫戍

  • 世宗が即位すると故官に起用され、ただちに興獻帝の皇号を争った。嘉靖元年(1522年)正月、郊祀が終わったばかりのところで清寧宮の小房が火を出した。啟充は述べた。災が内寝にまで及んだのは、まことに情に徇う礼が天常に戻り、僭逼の名が典則に乖くからである。輔臣は議を執り、礼を建てた臣は経生の邪説・佞倖の諛辞に敵わず、動もすれば母后を仮りて天下の口を箝する。大礼を正さず邪説を黜けないのなら、修省などみな空文である。まして近ごろは旨が中から出て内閣が知らず、奸党の獄が成れば曲げて庇護し、諫臣は斥け逐われて耳目には壅蔽の虞があり、大臣は疎遠にされて股肱には痿痺の患がある。司禮の権は宰相より重く、枢機の地は宦官に委ねられ、側近の臣は貪濁なのに頻りに遷除され、辺帥は軍を敗っても譴責されず、荘田の賞賚は過多で、潜邸への乞恩は已まない。仰いでは天の明を畏れ、俯しては衆の聴を察し、大臣に親しみ庶政を粛して災変を回らされたい、と。報聞にとどまった。
  • ついで江西を按察に出て、宸濠が蕭敬・張鋭・陸完らに通じた私書を手に入れた。そこには、早く孫燧を去らせたい、代わりは湯沐か梁宸がよい、その次は王守仁でもよい、とあった。よって敬・鋭らの罪を論じ、あわせて守仁も逆に党したので追奪すべきだと述べた。給事中の汪應軫は守仁の功を訟え、逆賊宸濠の私書は詔によって焼き毀たれているのに、啟充は知縣章立梅の掻き集めた言を軽信して黜けられ、その上でこの奏をした、有功を勧める所以ではないと言った。主事の陸澄もまた守仁のために奏弁した。御史の向信はそこで應軫と澄を弾劾した。帝は、守仁は宸濠の変を聞くや義に仗って兵を興し大難を平定したので、特に封爵を加えて大功に酬いた、改めて議するには及ばない、と述べた。
  • 帝が太監梁棟の請いにより中官を遣わして南京織造を督させたとき、啟充は同官および科臣の張嵩らとともに極諫したが、容れられなかった。
  • 啟充は日頃から謇諤(憚らぬ直言)であったので張璁・桂萼に憎まれた。おりしも郭勛が李福達の獄を庇って啟充に弾劾されたことから、璁と萼は啟充が私を挟んでいると指弾し、辺衛に謫戍した。十六年(1537年)赦されて還り、言者が交々薦めたが復用されず卒した。隆慶の初め、光禄少卿を贈られた。