出自と翰林時代
- 唐順之は字を應徳といい、武進の人。祖父の唐貴は户科給事中、父の唐寳は永州知府。順之は生まれつき優れた資質があり、少し長ずると諸書を広く読み通した。三十二歳の年、嘉靖八年(1529年)の會試に第一で及第し、庶吉士に改められた。
- 座主の張璁は翰林を嫌って諸吉士を他の部署へ出したが、順之だけは留めようとした。順之が固辞したので兵部主事に移され、病と称して帰郷した。久しくして吏部に任じられ、十二年(1533年)秋、朝官から翰林を選ぶ詔が出て、順之は編修に改められ、累朝の實録の校訂に当たった。
- 事業が終わろうとする頃、また病と称して辞そうとしたが、張璁はその上疏を留めて下さなかった。順之が張璁を遠ざけたがっていると告げる者があり、張璁は怒って、吏部主事のまま罷免し帰郷させ、永久に叙用しないという詔案を作った。
- 十八年(1539年)に東宮の官僚を選ぶ際、旧官に兼春坊右司諌として起用されたが、羅洪先・趙時春とともに太子への朝見を請うて再び官籍を削られ帰郷した。陽羨の山中に住まいを構えて十餘年読書し、内外からの推薦はいずれも取り上げられなかった。
倭寇との戦いと死
- 倭が江南・江北を蹂躙し、趙文華が視師として出た時、上疏して順之を推薦した。南京兵部主事に起用されたが、父の喪が明けておらず、出仕しなかった。喪が明けると職方員外郎に召され、郎中に進み、薊鎮の兵籍を調べに出た。帰って、欠員が三萬餘、在籍の兵も戦いに堪えないと奏し、臨機の便宜九事を条陳した。總督王忬以下がみな降格された。
- ほどなく南畿・浙江へ視師に赴くよう命じられ、胡宗憲と協力して賊を討った。順之は、賊を防ぐ上策は海上で遮ることであり、上陸を許せば内地はみな禍を受けると考え、自ら海に乗り出し、江隂から蛟門の大洋まで一昼夜に六、七百里を進んだ。従者は皆驚いて吐いたが、順之は平然としていた。
- 倭が崇明の三沙に停泊すると、舟師を督して海上で迎え撃ち、首級一百二十を斬り、その舟十三艘を沈めた。太僕少卿に引き上げられた。宗憲が順之の権限は軽すぎると述べたので、右通政を加えられた。
- 順之は賊が江北を犯したと聞くと、急ぎ總兵官盧鏜に三沙を防がせ、自ら副總兵劉顯を率いて援けに馳せ、鳳陽巡撫李遂とともに姚家蕩で大破した。賊は苦しんで退き廟灣に拠った。李遂は囲みを敷いて賊を疲れさせようとしたが、順之は策でないとして兵を進めてその営に迫り、火砲で攻めたが落とせなかった。
- 三沙がまたしきりに急を告げたので、順之は三沙へ戻り、盧鏜・劉顯を督して進撃したが再び不利であった。順之は憤って自ら馬を躍らせて陣を布いた。賊は高楼を構えて官軍を眺め、順之の軍が整っているのを見て塁を堅くして出て来ない。劉顯が退兵を請うたが順之は許さず、刀を持って真っすぐ前に出て、賊の営から百餘歩のところまで進んだ。盧鏜・劉顯は敗れることを恐れて強いて順之を還らせた。
- この時は真夏で、海上の舟に二か月いたため病を得て太倉に返った。李遂が南京に転じると、順之が右僉都御史に引き上げられて遂に代わって巡撫した。順之は病が重かったが軍事が切迫していたので辞退できず、江を渡ったところ、賊はすでに遂らに滅ぼされていた。
- 淮安・揚州はちょうど大飢饉であった。海防の善後策九事を条陳した。三十九年(1560年)春、汛期が来ると病を押して海に出、焦山を経て通州に至って没した。年五十四。訃報が届き、祭と葬を与えられた。先例では四品には祭を賜わるだけであったが、順之は労があったので葬まで賜わったという。
史論(唐順之の学問について)
- 順之は学問において窺わぬところがなく、天文・樂律・地利・兵法・弧矢・勾股・壬奇・禽乙に至るまでその根源を究めた。古今の書物をことごとく取って切り分け補い、区分して部立てし、左・右・文・武・儒・稗の六編を作って世に伝えた。学者はその奥深さを測れなかった。古文を作れば奔放でうねりがあり、大家の風があった。
- 生涯、苦節をもって自らを励まし、扉を外して床とし、敷物や褥を用いなかった。また王畿から良知の説を聞き、戸を閉じて一か月端座し、寝るのも忘れて自得するところが多かった。
- 晩年、趙文華の推薦によって出処進退を羅洪先に相談したところ、洪先は「すでに官の名簿に名を連ねている以上、この身は自分のものではない。どうして処士と同じでいられよう」と言い、順之はそこで出仕した。しかしそのために名望はかなり損なわれた。崇禎年間に㐮文と追諡された。
- 子の鶴徴は隆慶五年(1571年)の進士で、太常卿まで歴任し、やはり博学で知られた。
史論
- 贊に言う。朱紈は海禁を厳しくして盗の源を絶とうとし、その議論はきわめて正しかった。しかし士大夫を指弾したため彼らが堪えられず、ついに噛みつかれ、憤りのうちに死んだ。気質が身の累となったのは悲しむべきことである。寇の害が盛んな時、これを撲滅するには尽くせぬことを恐れるばかりで、臨機に誅を行うのは職分のうちである。それを罪とするのは法にこだわり過ぎである。
- 張經は功があって賞されず、冤罪で殺された。倭の害を熟れさせその攻勢を助け、東南を数十年の塗炭に陥れた讒賊の罪は誅し尽くせようか。
- 胡宗憲は奢りと汚職で汚名をこうむったが、徐海・汪直の徒を死なせなかったならば、その後の禍がどうなっていたかは分からない。
- 曹邦輔と任環の戦功は記すに足り、李遂と唐順之は防禦がよろしきを得た。とりわけ邦輔が師尚詔を平らげ、李遂が乱れた兵を鎮めたのは功が著しい。彼らは終始倭の事に関わったので、ここに併せて列した。