正徳朝の諫諍
- 孫懋、字は徳夫、慈谿の人。正徳六年(1511年)の進士で、浦城知縣に任じられ、南京吏科給事中に抜擢された。
- 御史の張經、寧波知府の翟唐が宦官に逆らって逮捕されると、孫懋は同官とともに救おうと論じた。織造太監の史宣が主事の王鑾、知縣の胡守約を誣告して詔獄に下したときは、史宣が御賜の黄棍と偽って官吏を打ち殺すことを許され、主簿の孫錦を脅して死なせ、いままた職を守る者を誣告していると述べ、史宣を処罰し王鑾・胡守約を元の任に戻すよう乞うた。
- まもなくまた諸給事中とともに、臣らがたびたび建言しても可否を選ばず一律に留め置かれている、万一、悪人がひそかに徒党を結んで公然と阻めば、朝廷に大事があっても陛下は聞かず大臣も知らぬことになり、その禍は言い尽くせない、と述べたが、いずれも返答はなかった。
- さらに塩法侍郎の薛章を弾劾して罷めさせ、太僕少卿の馬陟の罷免、御史の徐文華の留任、謝遷・韓文・孫交・張原・周廣・高公韶・王思らの召還を請い、遊猟を止めて常の朝儀に復すること、長く留めた辺兵を帰すこと、錦衣衛の冗官を減らすことを請うた。その諸疏はみな堂々としていた。
- 江彬が帝を巡幸に導くと、孫懋は述べた。江彬は凶暴邪佞な者でありながら至尊を挟んで居庸関を出、大臣の護衛もないまま独り沙漠に半年近くもおられ、両宮への養いは欠け、郊廟の祭りには親臨されず、四方に災異が相次ぎ盗賊が蜂起している。江彬を一日残せば宗廟社稷は一日憂える。ぜひ重刑に処されたい、と。
- 当時、内外の章奏を帝はおおむね見ず、君主の過失を諫めた者はしばしば罪を免れたが、ひとたび権幸に触れれば禍がただちに及んだ。人々は孫懋を危ぶんだが、江彬は日々帝の娯楽に侍っていて、これも目に留めなかった。
- 還幸を請い、南方への行幸を諫めたときも孫懋はみな加わった。宸濠が反いて帝が南都にあったときは、孫懋も従って赴き、賊を平らげた功の賞を急ぎ定めるよう請い、さらにたびたび帰京を請い、同官を率いて闕下に伏したが、いずれも顧みられなかった。
世宗朝と晩年
- 世宗が即位すると、建言によって貶謫された諸臣、周廣・范輅ら二十人を推薦する上疏を行い、みな召し用いられた。南京祭酒の陳霽、太常卿の張道榮を弾劾していずれも罷めさせた。
- まもなく、謝遷・韓文の起用を述べ、宋の文彦博の故事に倣って職務の煩わしさを負わせず、大礼・大政の折々に参与させれば必ず新政の助けになると乞うた。帝はこれを善しとしたが用いることはできなかった。
- 出て廣東參議となり、副使に遷った。嘉靖四年(1525年)、錦衣の官校が廣東で探索をしていたのを、孫懋は按察使の張祐とともに偽者ではないかと疑って捕らえた。事が聞こえて逮捕され詔獄に下り、藤縣典史に貶された。
- たびたび遷って廣西布政使に至り、十六年(1537年)に入って應天府尹となったが、進呈した郷試録が詔旨に触れて致仕し、卒した。