明史卷二百三 列傳第九十一 潘塤

武宗を諫める上疏

  • 潘塤、字は伯和、山陽の人。正徳三年(1508年)の進士で、工科給事中に任じられた。性は剛毅果断で、弾劾に憚るところがなく、大官の王鼎・劉機・甯杲・陳天祥らを論じて多くが容れられた。
  • 乾清宮が火災に遭うと、潘塤は上疏して述べた。陛下は即位して九年、治績はいまだ現れず災異が相次いでいる。臣が願うのは、安らかな居所でなければ住まず、大道でなければ通らず、正しい人でなければ親しまず、儒術でなければ尊ばず、大閲でなければ兵を観ず、法を執る者でなければ獄を成さず、骨肉の親でなければ政に干からしめず、汗馬の労がなければ濫りに賞さぬことである。
  • 陛下が戯れごとを好むと聞く。内庭に入れば琴瑟鐘鼓という人倫の楽しみがあり、離宮に遊んで歓とするには及ばず、小人どもと狎れて快とするには及ばない。外廷に出れば華夷は一統でみな臣妾であり、朝官を私人とし遠方の者を集めて勇士とするには及ばない。
  • 陛下が佛を好むと聞く。南郊には天地があり、太廟には祖宗がある。福を賜り恵みを迎えるのに佛のどこに用があろうか。番僧は追い、度僧は止めてよい。
  • 陛下が勇を好み、財貨を好み、土木を好むと聞く。奸を誅し乱を遏めるのが大勇であって、馬を馳せ剣を試して身を労するには及ばない。三軍六師こそが大武であって、辺將・辺軍を身辺に囲うには及ばない。土地に応じて貢を出させれば足り、皇店が何になろうか。市街は賑わっているのに、内市が何の役に立とうか。阿房宮の壮麗を、古人は金塊を土くれとし珠玉を砂利とする浪費と見た。まして豹を飼うなど。金碧のきらめきを、古人は民の膏を塗り血を釁ると見た。まして佛に供えるなど。
  • これら数々の好みは、やめられるはずなのにやめられていないものである。
  • 疏は奏上され、聞き置かれた。
  • 十一年(1516年)正月、上書して述べた。陛下ははじめ血気が定まらず礼度を越えることもあったが、いまや年齢も長じており、方針を改めるのはまさに今である。かつて太甲は桐に居して仁に処り義に遷り、中興を失わなかった。漢の武帝は輪臺の詔を下したとき七十歳だったが、なお名君とされた。まして陛下の過ちは太甲ほどではなく、悔いるのも武帝より早い。どんな過ちが正せず、どんな治世が築けないことがあろうか、と。
  • 当時、西安門外の民家を毀って何かを造営しようとしていた。潘塤は御史の熊相・曹雷とともに重ねて強く諫めたが、いずれも返答はなかった。
  • 三たび遷って兵科都給事中。右都督の毛倫が劉瑾に与したとして死罪となり世襲の廕を削られていたが、毛倫はかつて錢寧に恩を施しており、それを内応と頼んで、その子が世襲の回復を求めた。潘塤らは力争したが、錢寧が内から取り持って奏を握りつぶした。突然、中旨で潘塤と吏科給事中の吕經をそれぞれ一階進めて外任に出すと命じられ、朝廷じゅうが驚愕した。給事中の邵錫、御史の王金らが交々上章して留任を請うたが返答はなく、潘塤は開州同知に添え置かれた。

青羊山の賊の平定と河南飢饉

  • 嘉靖七年(1528年)、累進して右副都御史となり河南を巡撫した。潞州の大盗の陳卿が青陽山に拠って乱を起こし、山西巡撫の江潮・常道が先後して討ったが功がなかったので、潘塤に合同討伐が勅命された。
  • 潘塤は常道に謀って言った。賊は険阻に拠っており陣で当たるのは難しい、諸路を合わせて挟撃し、不意を突いてその険を奪えば捕らえられる、と。そこで五哨に分け三路から入り、土地の者を募って案内とした。まず井腦を攻め取ると、賊は全軍を挙げて険を争ったが、官軍が奮って大破し、莎草嶺まで追撃して安陽の諸巣を焼いた。山東副使の牛鑾は潞城から入って李莊泉で賊を破り、その夕べに河南副使の翟瓉が陳卿の巣を衝いた。陳卿は敗走し、翟瓉は欒莊山でこれを破り、また神河で破った。山西僉事の陳大綱もたびたび賊を追い詰め、先後して二千三百余人が降った。進兵から賊の巣を掃討し終えるまで、わずか二十九日だった。
  • 勝報が届き、帝は大々的に賞そうとして給事中の夏言を遣わして調査させたが、報告はまだ出なかった。
  • 河南が大飢饉になったとき、潘塤は適時に振救しなかった。河南知府の范鏓は指示を待たずに倉を開いて穀物を出し、民は徳としてこれを称えた。潘塤への怨嗟の声は大きく起こり、宮中にまで伝わった。帝は巡撫・巡按が災害の実情を隠したと厳しく責めた。潘塤は恐懼して罪を引き受けたが、あわせて范鏓に責めを帰したため、給事中の蔡經らに弾劾された。詔によって潘塤は罷免され、永久に叙用されないことになった。
  • 夏言が賊平定の功を調査して上申したとき、潘塤が首功であったが、桂萼が潘塤を憎んだため、ただ銀と絹を賜っただけだった。八十七歳で卒した。

吕經――言官としての抗論と遼東の兵変

  • 吕經、字は道夫、陝西の寧州の人。正徳三年(1508年)の進士で、禮科給事中に任じられた。九年(1514年)に乾清宮が焼けると、上疏して義子・番僧・辺帥の害を極論した。
  • たびたび遷って吏科都給事中。馬昂の妹が入宮した件を極論し、また地方長官のうち最も貪欲・横暴な四人を弾劾した。小人たちがみな憎み、ついに蒲州同知に貶された。さらに事によって宦官の黄玉に逆らい、誣告されて投獄された。
  • 世宗が即位すると山東參政に抜擢され、嘉靖十三年(1534年)、累進して右副都御史となり遼東を巡撫した。
  • 旧例では、軍一人に余丁三人を付け、馬一頭に牧地五十畝を給していた。吕經は余丁のうち二人を減らして均徭の帳簿に編入し、牧地はすべて官に収めた。また軍を使役して辺牆を築かせ、督促が度を越した。諸軍が吕經のもとへ来て役の免除を乞い、都指揮の劉尚徳が叱っても退かなかった。吕經が左右に命じて訴えた者を杖で打たせたので、兵卒はついに劉尚徳を殴った。吕經は花馬寺の奥の室に隠れたが、乱れた兵卒は役所の門を毀ち、均徭の帳簿を焼き、吕經を探し出して冠と衣を裂き、都司の役所に幽閉した。
  • 帝は吕經に帰朝を命ずる詔を下したが、都指揮の袁璘が諸軍の草代を差し引いて旅装を整えようとしたので騒ぎがぶり返し、吕經を捕らえて裸にして獄に入れ、辱め虐げた。そして鎮守の宦官の王純らを脅して、吕經の十一の罪を奏させた。
  • 帝は吕經を逮捕させたが、乱れた兵卒はさらに官校まで獄に入れ、久しくしてようやく解いた。吕經は詔獄に下され、茂州に流されて戍った。数年で釈放されて帰り、隆慶の初めに復官して卒した。
  • 遼東の乱卒は曾銑によって鎮定された。その顛末は「銑傳」にある。