明史卷二百三 列傳第九十一 歐陽鐸

均徭と均田賦

  • 歐陽鐸、字は崇道、泰和の人。正徳三年(1508年)の進士で行人に任じられ、上書して時政を極論したが返答はなかった。蜀府に使いしたとき、蜀王の厚い贈り物を受けなかった。
  • 工部郎中を歴任し南京兵部に移り、出て延平知府となった。淫祠を数十から百か所も毀ち、その材で学宮を修めた。司禮太監の蕭敬の家奴が人を殺すと法に照らして処断した。
  • 福州に移り、均徭(徭役の均等化)を議して言った。この郡には士大夫が多く、その士大夫はまた旧来の産をも多く持っている。産を持つ民はごく少ないのに、徭役はすべて民に負わされている――と。そこで民と士大夫で役を折半するよう請うた。士大夫はおおむね不都合としたが、巡按御史の汪珊が強く支持して議は実行された。
  • 嘉靖三年(1524年)、廣東提學副使に抜擢され、累進して南京光禄卿、右副都御史を歴任して應天の十府を巡撫した。
  • 蘇州・松江では田の等級差がひどく、下は畝あたり五升、上はその二十倍にも及んだ。歐陽鐸は、賦の最も重い田では耗米を減らして輕齎(銀納分)を割り当て、最も軽い田では本色(現物)を徴して耗米を増やし、内々に軽重を調整した。こうして賦は均等になった。
  • 田の受け渡し(推收)は圩(囲い田の区画)に従わせて戸には従わせず、詭寄(名義を偽って課役を逃れること)の余地をなくした。州県には荒田が四千四百余頃あり、毎年その賦を民から取り立てていたが、歐陽鐸は洗い出した漏れ賦や他の余剰でこれを補った。徭役や郵伝の費用の削減について数十から百に及ぶ条項を議し、民はみな便利とした。
  • 南京兵部侍郎に遷り、吏部右侍郎に進んだ。九廟の火災に際してみずから責めを陳べて去った。
  • 歐陽鐸は文学の素養があり、内面の行いも潔く、顕職に至っても家は簡素なままだった。卒して工部尚書を贈られ、諡は恭簡。