南京での武宗行在への対応
- 寇天敘、字は子惇、榆次の人。郷試に及第して太學に入り、崔銑・吕柟と親しかった。正徳三年(1508年)の進士に及第し、南京大理評事に任じられ、寺副に進み、累進して應天府丞となった。
- 武宗が南京に駐まると、従官と衛士は十余万、日々の費えは金一万を数え、側近の求めはその倍に及んだ。府尹の齊宗道は憂え恐れて卒し、寇天敘がその事務を代行した。日々、青い衣に黒い帽で堂上に坐した。
- 江彬の使者が来ると、寇天敘は穏やかに「民は窮し官の蔵は空で、歓心を買うものが何もない。丞たる私は譴責を待つだけです」と告げた。江彬の使者は重ねて来たが毎度同じ応対で、江彬もついにやめた。他の権勢の側近が求めてくると「あなたの奏聞を待って、それから渡します」と答えた。
- 禁軍が民の物を奪うと、寇天敘は兵部尚書の喬宇とともに腕自慢の者を選んで格闘の見世物をさせた。禁軍の兵は傷を負い、恥じかつ恐れて横暴を働けなくなった。その場その場の抑制のしかたはおおむねこの類だった。車駕が九か月も駐まりながら南京が大きく困窮しなかったのは、寇天敘と喬宇の力である。
辺鎮の巡撫と晩年
- 嘉靖三年(1524年)、右僉都御史として宣府を巡撫することになったが、赴任前に鄖陽へ改められ、わずか二か月でまた甘肅に改められた。
- 回の賊が山丹を犯すと、将士を督してその首領のトクトクムール(托克托穆爾)を捕らえた。西域が獅子・犀牛・西狗を貢いだ際には、寇天敘は却けるよう請うたが聴かれなかった。
- 右副都御史に進み陝西を巡撫。敵が固原に入るとこれを撃ち破り、百余の首級を挙げた。また大盗の王居らを討ち平らげ、たびたび銀と絹を賜った。
- 織造の太監が来ると、担当役所は取りやめを奏請しようと議したが、寇天敘は「着いたばかりで急に取りやめを請えば、取りやめにならぬどころか勢いがかえって強まる」と言った。たまたまその年が凶作だったので、租税の免除と穀物を出しての飢民の振救を請い、そのついでに織造は凶年に設けるべきものではないと述べた。帝はただちに召還した。
- 兵部右侍郎を歴任して卒した。家が貧しく葬儀の備えも整わなかった。
- 寇天敘は太學にいたころ、父の病を聞いて六昼夜駆け通して家に着き、父の病も癒えたという。