明史卷二百 列傳第八十八 郭宗臯
篇首の立伝者一覧
底本の篇首に掲げられた立伝者は次のとおり(括弧内は割注の附伝者)。
- 姚 鏌(子 淶)
- 張 嵿
- 伍文定(邢珣ら)
- 蔡天祜(胡 瓚・張文錦)
- 詹 榮(劉源清)
- 劉天和
- 楊守禮
- 張 岳(李允簡)
- 郭宗臯
- 趙時春
姚鏌――出自と地方官時代
- 姚鏌、字は英之、慈谿の人。𢎞治六年(1493年)の進士。禮部主事に除せられ、員外郎に進んだ。
- 廣西提學僉事に抜擢され、宣成書院を立て、五經の師を招いて士子を教えた。桂の人は山魈の卓旺を祀っていたが、鏌が像を毀したので風俗は改まった。
- 福建副使に遷り、まもなく學政の監督に改められた。正徳九年(1514年)、貴州按察使に抜擢された。
- 十五年(1520年)、右副都御史を拝して延綏を巡撫し、辺務六事を上って、いずれも議して実行された。
- 嘉靖元年(1522年)、濟農が涇陽に侵入すると、鏌は逰擊の彭楧を西路に出し、指揮の卜雲を獄から釈いて副えさせ、夜半に迎え撃たせて敵の二将を斬ったので、敵は逃げた。璽書で褒め諭された。
- まもなく召されて工部右侍郎となり、外に出て漕運を督し、兵部左侍郎に改められた。
姚鏌――田州の岑猛の討伐
- 四年(1525年)、右都御史に遷り、兩廣の軍務を提督し、巡撫を兼ねた。
- 田州の土官の岑猛が謀反を企てたので、鏌は永順・保靖の兵を調え、沈希夷に張經・李璋・張佑・程鑒とともにそれぞれ兵八万を統べて道を分けて討たせ、鏌自身は總兵官の李麒らと定羅・丹梁を攻め破った。沈希儀の計を用いて猛の舅の岑璋と結んで内応させ、大いにこれを破り、猛の子の邦彦を斬った。璋は猛を誘って殺し、その首を献じた。
- 詔により鏌は左都御史に進み、太子少保を加えられ、子一人に官を与えられ、諸将もそれぞれ秩を進められた。
- 鏌は流官に改めて設置するよう請い、善後七事を陳べ、裁可された。そこで參議の汪必東、僉事の申惠に、參將の張經と兵一万を率いてその地を鎮めるよう命じた。
姚鏌――盧蘇・王受の乱と罷免
- 必東と惠が病と称して他所に駐屯したので、猛の一党の盧蘇・王受らは「猛は死んでおらず、交趾の兵二十万を借りてまもなく来る」と偽って言った。夷民はこれを信じ、蘇らが城に迫ると、張經は囲みを突いて逃げ、城はついに陥落した。王受もまた思恩府に攻め入った。
- 巡按御史の石金は、鏌が策を誤って上を欺いたと弾劾し、あわせて前總督の盛應期をも論じた。帝は鏌に功があるとして便宜に撫すか討つかを許した。蘇と受はしばしば赦しを求めたが鏌は許さず、大挙して討とうとした。折しも廷議で王守仁が起用されて兩廣の軍を督することになり、鏌に共同で当たるよう命じられたので、鏌は病と称して罷免を乞い、駅伝で帰ることを許された。
- はじめ廣東提學道の魏校が諸寺観を毀ち、その田数千畝はことごとく霍韜・方獻夫らの家に入っていた。鏌は廣東に至ってこれを官に取り戻したので、韜と獻夫ははなはだ恨み、張璁・桂萼と結んで鏌を排斥し、「大同は征討すべきなのに撫し、田州は撫すべきなのに征討した。いずれも費宏が国を謀って善からず、南北の患いを醸したのだ」と言った。当時、宏はすでに去っていたが、なお鏌にかこつけて排斥したのである。
- 鏌は辞職を許され、交代を待っていたところ、千夫長の韋貫・徐伍が思恩を攻め返した。鏌がその状を上ると、詔により先に貫らを賞し、撫すか討つかの事宜は守仁の処置を待つこととした。
- のち鏌は石金の前の疏に反論して奏し、金が妨害して宼を養っていると謗り、金もまた再び疏を上って鏌を謗った。帝は先に張璁らの言を聞いていたので、鏌の職を落として閒住とした。
- その後、蘇と受が再び叛いたので、帝は次第に鏌を思い出した。十三年(1534年)、三邉の總制が欠けたとき、大學士の費宏と李時がともに召見され、宏が鏌を推薦し、時もこれを助けたので、兵部尚書として三邉の軍務を總制するよう命じられた。赴任しないうちに宏が卒し、鏌が辞退したので帝は不快となり、やはり職を落として閒住とさせた。
- 鏌が罷免されてのち、推薦する者は二十通の疏に及んだが用いられず、数年家居して卒した。
姚淶(附伝)
- 子の淶、字は維東。嘉靖二年(1523年)の殿試に首席で合格し、翰林修撰に任じられた。大禮を争って廷杖された。
- また郊祀の合祀は軽々しく改めるべきでないと議した。召されて『明倫大典』の修纂に加わるよう命じられたが、懇ろに辞退して加わらなかった。官は侍讀學士に至った。
張嵿――出自と劉瑾・宸濠との関わり
- 張嵿、字は時峻、蕭山の人。成化二十三年(1487年)の進士。
- 𢎞治初め、『憲宗實録』を修めるにあたり、蘇州・松江の諸府に赴いて逸事を採集するよう命じられた。事が終わって上饒知縣に任じられ、南京兵部主事に遷り、その地で刑部郎中に進んだ。
- 正徳初め、興化知府に遷った。隆平侯の張祐に子がなく、弟の禄が族人と襲爵を争い、南京の法司に訴えたが長く決せず、さらに京師に訴えた。劉瑾がちょうど政を専らにしていたので、尚書の樊瑩、都御史の髙銓の籍を削り、嵿も郎として取り調べを担当した廉で民に落とされた。
- 瑾が失脚すると南䧺を知し、江西參政に抜擢され、右布政使に進み、治績が卓異として挙げられて左に遷った。
- 寧王の宸濠が地を広げて居館を大きくしようとしたとき、嵿は不可として譲らなかった。宸濠は大いに怒り、人を遣わして贈り物をした。嵿が開いてみると棗・梨・薑・芥であった。隠語である。
- まもなく召されて光禄卿となり、右副都御史として保定の諸府を巡撫したが、中官に逆らって病と称して帰った。
張嵿――兩廣總督としての討伐
- 世宗が即位すると、右都御史として兩廣の軍務を總督するよう命じられた。
- 廣西上思州の賊、黄鏐が峝の兵を糾合して州縣を劫掠したので、嵿は討ってこれを捕らえた。
- 廣東の新寧・恩平の賊、蔡猛三らが剽掠して衆は数万に及んだ。嵿は兵三万餘人を合わせて新寧の諸賊を撃ち、巣二百を破り、一万四千餘人を捕らえ斬り、賊の家族五千九百餘人を俘とし、猛三らはみな誅された。嶺南で兵を用いて寡をもって衆に勝ったものとして、この役に及ぶものはなかった。勝報が届き、奨賞を賜わった。
- 程鄉の賊、梁八尺らが福建上杭の流賊と呼応したので、都指揮の李臯らを遣わして福建の官兵と会し挟撃させ、五百餘人を捕らえ斬った。
- 歸善の李文積が奸悪の徒を集めて捕縛を拒み、長く討っても克てなかったので、嵿は參政の徐度らを遣わして討たせ、千餘人を捕らえ斬った。
- 佛即機國の人、别都盧が滿刺加の諸国を劫掠し、さらにその配下の疎世利らを率い、五隻の船で巴西國を破り、そのまま新㑹を侵した。嵿は将を遣わして海に出て捕らえさせ、その船二隻を獲たので、賊は逃げた。
- まもなく召されて南京都察院の事を掌り、その地で工部尚書に改められた。六年、京官の大計で拾遺により弾劾されて致仕し、数年後に卒した。
伍文定――出自と初期の官歴
- 伍文定、字は時泰、松滋の人。父の琇は貴州參議。文定は𢎞治十二年(1499年)の進士に及第した。膂力があり弓馬に長け、議論は慷慨であった。
- 常州推官に任じられ、精敏で獄を裁くのに巧みで、強吏と称された。魏國公の徐俌が民と田を争ったとき、文定は調べて民に返した。劉瑾が権を執ると、俌は重い賄賂を贈って大獄を起こし、巡撫の艾樸以下十四人がことごとく逮えられた。文定はすでに成都同知に選ばれていたが、やはり詔獄に下され民に落とされた。
- 瑾が失脚すると起用されて嘉興に補せられた。
伍文定――姚源の賊の討伐
- 江西姚源の賊、王浩八らが浙江開化を流れ歩いて劫掠したので、都御史の俞諫が文定と參將の李隆、都指揮の江洪、僉事の儲珊に檄して討たせ、華埠に軍を置いた。
- 一方、都指揮の白𢎞と湖州知府の黄衷は別に馬金に営したが、賊の一党の劉昌三に破られて𢎞は捕らえられ、官軍は大いに挫けた。
- 浩八が華埠を衝いたが、洪と文定はこれを撃ち破り、孔埠まで追い、隆と珊もまた池淮まで追ってその巣を破った。
- 進んで淫田を攻めたが、洪は奇兵で深く入って賊の誘いに乗り、指揮の張琳らとともに捕らえられた。文定らは殿軍を務めて還ることができ、賊もまた江西に逃げ帰った。
- 諌らが文定の忠勇の状を上ったので、詔により担当官が奨労し、河南知府に抜擢された。計略をめぐらして賊の張勇・李文簡を捕らえた。才が難治の地に堪えるとして吉安府に移され、計略により永豐および大帽山の賊を平げ、のち巡撫の王守仁を助けて桶岡・横水を平定した。
伍文定――宸濠の乱の平定
- 宸濠が反すると、吉安の士民は争って逃げ隠れた。文定は逃げた者一人を斬ったので、衆はそこで落ち着いた。そして守仁を迎えて城に入れ、知府の邢珣・徐璉・戴徳孺らが前後して至り、ともに賊を討った。
- 文定は大帥に当たり、丙辰の戦いでは身に矢石を冒し、火が鬚を焦がしても動じなかった。賊が平らげられると功は第一とされ、江西按察使に抜擢された。
- 張忠・許泰が南昌に至り、その功を横取りしようとしたが、守仁はすでに宸濠を俘として浙江へ赴いていた。忠らは当てが外れて大いに恨み、文定が出迎えて謁すると、そのまま縛った。文定は罵って言った、「私は九族を顧みず国家のために大賊を平げた。何の罪があるか。汝らは天子の腹心でありながら忠義の者を辱め、逆賊のために仇を報いている。法によれば斬るべきだ」。忠はいっそう怒り、文定を打って地に伏させた。文定は解任を求めたが返答がなかった。
- まもなく廣東右布政使に遷ったが、赴任前に世宗が即位したので、忠らの罪状を上って言った。
- かつて忠・泰が劉暉とともに江西に至ったとき、忠は自ら天子の弟と称し、暉は天子の子と称し、泰は威武副將軍と称して天子と同僚だと言い、任地の吏を辱め、良民を誣告して害し、万端の要求をし、百万を超える収奪をした。そのため餓死者が野に満ち、盜賊が横行した。三人を寸刻みにしても江西の百姓に謝るに足りない。
- 今、大悪の江彬・錢寧はいずれもすでに法に伏した。三人は実にその一党である。速やかに天誅を正して国典を明らかにされたい。
- また宸濠の資財を放出して江西に返し経費に充て、忠・泰に陥れられた無辜の者、および寧府の宗人で謀に与らなかった者を憐れんで釈放し、冤獄を清められたい。
- 帝はいずれも嘉納した。
- 功を論じて右副都御史に進み、操江を提督した。嘉靖三年(1524年)、海賊の董效ら二百餘人を討って捕らえ、敕を賜わって奨労された。まもなく病と称して帰った。
伍文定――雲南の土酋討伐と致仕
- 六年(1527年)、召されて兵部右侍郎を拝し、その冬、右都御史に抜擢され、胡世寕に代わって院事を掌った。
- 雲南の土酋の安銓が反して參政の黄昭道を破り、尋甸・嵩明を攻め落とした。翌年、武定の土酋の鳳朝文もまた反して同知以下の官を殺し、銓と兵を合わせて雲南を囲んだ。詔により文定は兵部尚書に進み前職を兼ね、雲南・四川・貴州・湖廣の軍を提督して討ち、侍郎の梁材が餉を督した。折しも芒部の叛酋の沙保の子、普奴が乱をなしたので、あわせて文定に委ねられた。
- 文定が雲南に着かないうちに、銓らはすでに巡撫の歐陽重に破られていたので、そのまま軍を移して普奴を征した。左都御史の李承勛が、四川・貴州は疲弊しており用兵すべきでないと極言したので、召還されて京營の提督を命じられた。文定は湖廣に至って省祭による帰郷を乞うた。
- のち四川巡按御史の戴金がさらに上言した、「叛酋が乱を称した当初は、まだ撫することができる勢いであったのに、文定は決然と進兵し、何ら顧慮しなかった。糧秣の輸送に数十万を費やし、罷師の詔が下ってもなお止めようとしなかった。さらに土酋の阿濟らの罪を極論したため、軍民に流言が立ってあやうくまた変が生じるところであった。愚考するに文定は罪すべきである」。尚書の方獻夫・李承勛もこれに乗じて、文定は大を好み功を喜んで財を損ない人を動かしたと謗った。そこで致仕を命じられた。
- 文定は忠義をもって自ら任じ、事に遇えば敢えて行い、時勢に迎合しなかった。芒部の役では小敵がしばしば乱すのに憤り、国のために威を伸ばそうとしたが、論者に横から妨げられた。廟堂はもっぱら姑息を事としたので、功は成らなかった。九年(1530年)七月、家で卒した。天啟初め、忠襄と追諡された。
邢珣(附伝)
- 邢珣、當塗の人。𢎞治六年(1493年)の進士。正徳初め、南京戸部郎中を歴任し、劉瑾に逆らって除名された。
- 瑾が誅されると南京工部に起用され、贛州知府に遷った。大盜の滿總らを招き降らせ、家屋を与え田を給して手厚く撫したので、のちに他の盜を討つのに多くその力を借りた。
- 守仁が横水・桶岡を征したとき、珣は常に軍の先鋒となり、功が第一で二秩を加えられた。
- 宸濠が反して重賞で滿總を誘ったとき、總はその使者を捕らえて珣に送り、そのまま珣に従って宸濠の平定に加わった。
徐璉(附伝)
- 徐璉、朝邑の人。文定と同年の進士。戸部郎中から外に出て袁州知府となった。宸濠討伐に従い、首功千餘を獲た。
- 事が定まると、珣と璉は江西右參政に遷った。世宗が功を録してそれぞれ秩を二等増した。
- 嘉靖二年(1523年)の大計で、給事中・御史が職に堪えぬ監司二十二人を弾劾し、珣と璉もその中にあった。吏部は軍功にまだ報いていないとして布政使に秩を進めて致仕させるよう請い、従われた。二人はついに廃された。
邢埴・邢址(附伝)
- 珣の子の埴は、かつて張璁に学んだ。嘉靖初めに鄉薦に合格した。璁が貴顕になってしばしば引き立てようとしたが、辞退して応じなかった。浦城知縣に任じられた。
- 徐浦という者が公府に使役されていたのを、埴は一目見て非凡と認め、自分の子とともに学ばせ、妻を娶らせた。のちに登第して給事中となり、その家は代々埴を祀った。
- 埴の弟の址は進士から御史を歴任し、山東鹽運使で終わり、清廉な操を知られた。
戴徳孺(附伝)
- 戴徳孺、臨海の人。𢎞治十八年(1505年)の進士。工部員外郎を歴任し、蕪湖の税を監して清廉の名があった。再び遷って臨江知府となった。
- 宸濠が反して使者を遣わして府の印を収めようとすると、徳孺はこれを斬り、家人に誓って「私は孤城を死守する。もし急があればお前たちは池に身を沈めよ。私は国に背かぬ」と言い、即日戒厳した。まもなく守仁とともに宸濠を滅ぼした。
- 憂に服して去った。世宗は徳孺の軍の統率が最も整っていたとして、彼だけ三秩を増して雲南右布政使とした。船が徐州に泊まったとき転覆して溺死した。のちに光禄寺卿を贈られ、子一人に官を与えられた。
王守仁の上疏――同功の諸人を訟える
- 珣・璉らは義を唱えて賊を討ち、一カ月餘りで大功を成したが、当事者は守仁を妬んだために彼らを厳しく抑え、賞したりしなかったりし、しばしば考功の法を借りて追い出した。
- 守仁が再び疏を上って爵位を辞したとき、諸人のために訟えて言った。
- 宸濠の変が起こった当初、勢いは猖獗で人心は疑い懼れ、退いて阻んでいた。当時、真っ先に義師に従った者は、伍文定・邢珣・徐璉・戴徳孺の諸人のほか、知府の陳槐・曽嶼・胡堯元ら、知縣の劉源清・馬津・傳南喬・李美・李楫および楊材・王冕・顧佖・劉守緒・王軾ら、郷官の都御史王懋中、編修の鄒守益、御史の張鰲山・伍希儒・謝源らである。ある者は鋒を摧き陣を陥れ、ある者は迎え撃ち伏せて撃ち、ある者は謀を助け議論し記録・経理に当たった。いわゆる功を同じくし体を一にする者である。
- 帳下の士では、聴選官の雷濟、已故の義官蕭禹、致仕縣丞の龍光、指揮の髙睿、千戸の王佐らが、ある者は兵の檄を偽造してその進退を撹乱し事機を壊し、ある者は偽の書で反間して腹心を離間し党与を散らした。
- 今、聞くところでは、功を記した文冊が作り直され、多くが削られているという。挙人の冀元亨は、私のために寧王を説いて奸人に陥れられぬよう勧めたのに、ついに獄中で死んだ。とりわけ心を傷め目を覆う思いで、冥々のうちに彼らに負い目がある。
- そもそも宸濠は積年の威で人を凌ぎ脅かしたので、数千里の外にあってさえ震え驚き手を失わぬ者はなかった。まして江西の諸郡縣は身に迫る危難に近く、目に触れるものはみな賊兵、行く先々に賊党があった。真に身を捨てて難に赴く義、力を尽くして主に報いる忠がなければ、誰が粉々に砕かれる禍を甘受し一族皆殺しの誅に従い、必死の地を踏んで万に一つも望みがたい功を望もうか。
- 今、私だけが封爵を重んじられ、この事を同じくした諸人は、ある者は賞が行われぬうえその功績まで削られ、ある者は賞が及ばぬうちに罰が先に行われ、ある者は昇進の名だけを虚しく受けてそのまま退閑させられ、ある者は不忠の名を濡れ衣で着せられてそのまま廃斥された。自分が権奸に誣告され挫辱されただけのことではない。多くの憎しみと妬みが、ただ指摘し粗探しすることを快としており、その不平を鳴らし屈抑を伸ばそうとする者を見たことがない。私はひそかにこれを痛む。
- 奏は入ったが、ついに沙汰やみとなり実行されなかった。
蔡天祜――出自と大同の兵変の鎮定
- 蔡天祜、字は成之、睢州の人。父の晟は濟南知府で清廉と恵政で知られた。
- 天祜は𢎞治十八年(1505年)の進士に及第し、庶吉士に改められ、吏科給事中を授けられた。外に出て福建僉事となり、山東副使を歴任して遼陽を分廵した。凶作の年に飢民一万餘を活かし、濱海の圩田数万頃を開いたので、民はこれを「蔡公田」と呼んだ。しばしば遷って山西按察使となった。
- 嘉靖三年(1524年)、大同で兵乱が起こり巡撫の張文錦が殺害された。詔により乱卒に限定的な赦を与え、宣府巡撫の都御史李鐸を撫に改めて鎮めさせようとしたが、鐸は母の憂で赴かなかった。そこで天祜が右僉都御史に抜擢されて大同を巡撫した。
- 天祜は数騎を従えて城に馳せ入り、軍士に諭して首謀者を差し出させたので、衆心はやや落ち着いた。
- 折しも尚書の金獻民、總兵官の杭䧺が甘肅へ出師する途上、大同を通ったので、乱卒は討伐されると疑って再び騒ぎ立てた。天祜は懼れて急ぎ再度の赦を請うた。兵部は「元凶を除かなければ後を戒められない」として、特に大臣を遣わして宣大の軍務を總督させ変を制するよう請うた。そこで戸部侍郎の胡瓚に都督の魯綱を伴わせ京軍三千を率いて赴かせた。
- 瓚らが出発する前に、進士の李枝が餉銀を届けに来た。乱卒は「これは密詔を承け、大同の人を皆殺しにして軍を犒う金だ」と言い、夜中に火を放って枝の宿舎を囲んだ。枝が文書を出して示すと、ようやく解けた。
- まもなくまた知縣の王文昌を殺し、代王府を囲んで王に赦しを乞う奏をさせようと脅した。王は急いで二人の郡主を連れて宣府へ逃げた。
- 巡按御史の王官は「乱卒は今まさに騒がしいのに大兵が境に迫れば、叛乱を促すことになる。速やかに禁軍を止め、臣に密かに図らせていただきたい」と言った。そこで瓚に宣府に駐兵するよう命じた。
- しばらくして天祜が、總兵官の桂勇がすでに五十四人を捕らえたと奏し、京軍の派遣を止めるよう請うた。帝は妨害であると責め、必ず首悪の郭鑑らを捕らえるよう命じた。
- やがて瓚が陽和に至り、勇と天祜は千戸の苗登に命じて鑑ら十一人を捕らえ斬らせ、首を箱に納めて瓚に送り、凱旋を請うた。しかしわずか二日後、鑑の一党の登郭疤子がまた徐氊兒らを糾合し、夜に勇の家人を殺し、さらに苗登の家を焼いた。瓚は「皆殺しにしなければならない」と言った。帝はそこで天祜を厳しく責め、勇を京に召し還して前總兵の朱振を代わりとし、瓚にはなお宣府に駐屯するよう敕した。
- まもなく天祜が徐氊兒らを捕らえて誅したので、瓚らはついに凱旋した。
- 翌年正月、侍郎の李昆・孟春、總兵官の馬永が連署して「疤子は塞外に潜んで逃げており、必ず後患となる」と言い、帝は使者を遣わして調べさせようとしたが、瓚が京に還って「逃げた兵は憂えるに足りない」と言ったので、帝は調査官の派遣を取りやめた。
- 疤子はまた密かに城に入って朱振の邸を焼いた。翌朝、天祜は城を閉じて大捜索し、疤子およびその一党三十四人を捕らえ、ことごとく斬って晒し、脅されて従った者はすべて赦した。人心はここに大いに定まった。
- 事が報告され銀幣を賜わり、副都御史に進んで巡撫は元のままとし、まもなくその地で兵部右侍郎に進んだ。
蔡天祜――弾劾と晩年
- 久しくして召されて部に還った。天祜は藩の禄が長く欠けており、しかもその年は辺垣の修繕に当たっていたので、便宜により淮鹽の引の価を上げ、一万引ごとに銀五千を加えた。これを告発されたが、帝は宥した。
- ここに至って御史の李宗樞がまた前の事を追及して論じたので、天祐は病と称して去った。
- 二年家居して詔により起用されることになったが、京に着かないうちに病を得て、帰郷を願い出て卒した。享年九十五。
- 天祜は才知があり、兵変のときは左右がみな賊の耳目で、幕府の動静はすべて知られていた。天祜は星占い・卜占の術者を広く招いて軍中を往来させ、それによって敵情を得たので、ついにこれによって成功した。鎮にあること七年、威と徳が大いに顕れ、父老は安輯祠を建てた。
胡瓚(附伝)
- 胡瓚、字は伯珩、永平の人。進士。官は南京工部尚書で終わった。
張文錦――出自と安慶の守備
- 張文錦、安邱の人。𢎞治十二年(1499年)の進士。戸部主事に任じられた。正徳初め、劉瑾に陥れられ詔獄に逮え繋がれ、民に落とされた。
- 瑾が誅されると旧官に起用され、再び遷って郎中となり、陜西で税を督し、辺境を計り民を裕かにする十事を条陳した。
- 安慶知府に遷り、寧王の宸濠が必ず反すると見て、都指揮の楊鋭とともに防禦の計を立てた。宸濠が果たして反し、江を下ってきたとき、文錦らはその南都攻撃を慮り、軍士を城に登らせて罵らせた。宸濠はそこで留まって攻めたが、ついに落とせなかった。詳細は楊銳の傳に見える。
- 璽書で褒め称えられ、太僕少卿に抜擢された。
張文錦――五堡の築城と大同の兵変
- 嘉靖元年(1522年)、右副都御史を拝して大同を巡撫した。文錦は性が剛く、賊を拒んで重い名声を得ていたので、鋭意刷新に努めたが、性急ではなはだ順序を欠いた。
- 大同の北は四方が平坦で、宼が来ても防ぎようがない。文錦は「宼が宣府を犯しても鎮城に近づけないのは、葛谷・白陽の諸堡が外の蔽いとなっているからである。今、城外がすぐ戦場では、どうして重みを示せようか」と言い、城の北九十里の外に五堡を増設することを議した。水口・宣寧・只河・桞溝・樺溝である。參將の賈鑑が工事を厳しく督したので、兵卒はすでに怨んでいた。
- 堡が完成すると、鎮の兵卒二千五百家を移して戍らせようとした。衆は行くのを憚り、新丁を募るよう請い、僚吏もみなそう申し立てたが、文錦は怒って「そんなことをすれば命令が行われなくなる。鎮の親兵が先に行けば、誰があとに残ろうか」と言った。親兵はもとより遊惰で、妻帯者は派遣されると聞いて大いに恐れ、単身で行くか交替制にするよう請うたが、これも聴かれず、厳しく急き立てられた。鑑は風を承けてその隊長を杖打った。
- 諸辺の兵卒は、甘州五衛が巡撫の許銘を殺したのに朝廷の処置が軽かったことから、はなはだ憚るところがなくなっていた。ここに至って兵卒の郭鑑・桞忠らが衆の憤りに乗じて乱を唱え、賈鑑を殺してその屍を裂き、塞を出て焦山墩に屯した。
- 文錦は外の宼と結ぶのを恐れ、副将の時陳らに招いて城に入れさせ、そのうえで首謀者の処罰を求めた。郭鑑らは大いに懼れ、再び集まって乱をなし、大同府の門を焼き、行都司に入って獄囚を放ち、さらに都御史の府門を焼いた。
- 文錦は垣を越えて逃げ、博野王の府邸に隠れた。乱卒は王宮を焼こうとしたので、王は懼れて文錦を差し出した。郭鑑らはこれを殺し、やはりその屍を裂き、そのまま鎮守・總兵の公署を焼き、前總兵の朱振を獄から出して帥となるよう脅した。嘉靖三年(1524年)八月のことである。
- 事が報告され、帝は侍郎の李昆に乱卒を赦させた。昆は文錦のために卹典を請うたが返答がなかった。久しくして文錦の父の政が、子の安慶を守った功を訴え、禮部もこれを請うたが、ついに許されなかった。文錦の妻の李氏がさらに上疏して哀願すると、帝は怒って疏を持参した者を捕らえて治罪させた。
- 副都御史の陳洪謨は「文錦が事をしくじったのだから朝廷が誅すのはよい。しかし士卒の手を借り、それが四方に伝われば国威の損なわれることは小さくない」と言ったが、また旨が下って詰責された。これより廷臣はあえて言わなくなった。萬厯年間に至ってようやく右都御史を贈られ、天啟初め、忠愍と追諡された。
詹榮――大同兵変の収拾
- 詹榮、字は仁甫、山海衛の人。嘉靖五年(1526年)の進士。戸部主事に任じられ、郎中を歴任して大同で餉を督した。
- 折しも兵変が起こって總兵官の李瑾が殺され、總督の劉源清が師を率いて城を囲んだが長く落ちなかった。榮はもとより智略があり臨機応変に長けており、叛卒は城中を掠めても榮を犯すことはなかった。
- 外の囲みがいよいよ急になると、榮は密かに都指揮の紀振、遊擊の戴濓、鎮撫の王寧と同盟して賊を討つことを約した。叛卒の馬昇・楊麟に逆心がないと見て、表向きは寧に官民の陳情書を持たせて源清のもとに行かせ、叛卒のために赦免を乞わせつつ、裏では榮の謀を告げさせ、昇と麟の死罪を宥して三千金を与え、決死の士を募って手柄を立てさせるよう請わせた。
- 折しも源清はすでに罷免されており、巡撫の樊繼祖がこれを許した。昇と麟はそこで腹心を結んで首悪の黄鎮ら九人を捕らえて誅した。榮は城門を開いて繼祖を迎え入れ、さらに二十六人を捕らえて斬った。功を録して光禄寺少卿に抜擢され、再び遷って太常寺少卿となった。
詹榮――甘肅・大同の巡撫として
- 二十二年(1543年)、右僉都御史として甘肅を巡撫した。魯黙特の貢使で甘州に留まっている者が九十餘人あったが、總兵官の楊信が彼らを駆り立てて宼を防がせ、十分の一が死んだ。榮は「彼らは好誼で来たのに、これを刃の下に用いるのは遠人の心を失い、しかも中国の弱さを示すものだ」と言った。詔により信の官を奪い、死者を柩に納めて送り返させたので、番人は感じ喜んだ。
- 一年を越え、大同巡撫の趙錦が總兵官の周尚文と折り合わなかったので、詔により榮と錦の任を交換した。
- 諳逹の数万騎が侵入し掠めたが、榮は尚文とともに黒山の南でこれを破り、右副都御史に進んだ。
- 宼がまた大挙して中路を犯し、參將の張鳳らが陣没した。榮は尚文および總督の翁萬達とともに厳重に兵を陽和に備え、騎兵を出して迎撃し、多く殺傷したので宼は引き揚げた。
- 代府の奉國將軍の充灼が剽掠を働いたので、奏してその禄を奪った。充灼らは小王子と結んで侵入させ、大同を占拠しようと謀ったが、榮が尚文に告げて捕らえさせ、みな罪に伏した。
- 榮は大同に険がないことから、東路の辺牆百三十八里、堡七、墩臺百五十四を築いた。
- また辺を守るには粟を蓄えるべきであり、辺に近い𢎞賜などの堡三十一所は延々五百餘里に及び、開拓すればいずれも肥沃な田数十万頃になるとして、奏請して軍を招いて耕作させ、その租と徭役を免じ、大同の一年分の馬市の費用を牛の購入に振り替えて与え、秋冬には集めて宼を遏めることとした。帝はただちに従った。
- 馬宼が侵入すると、尚文とともに彌陀山でこれを破り、一部長を斬った。
- 榮は先に乱を鎮めた功で兵部右侍郎に進み、さらに辺の修繕と破敵によりしばしば奨賞を受けた。召還されて部の事を管理し、左に進んだ。
- 尚書の趙廷瑞が罷免されると榮が部の事務を代行し、秋防十事を奏行した。のち翁萬逹が入って尚書となったが母の喪に遭ったので、榮がまた部務を代行することになった。病と称して辞職を乞うたので、帝は怒って職を奪い閒住とさせた。二年後に卒した。
- 榮が大同を撫していたころ、萬逹が總督、尚文が總兵で、三人ともに才略があり、宼はしばしば侵入しても志を得られなかった。その後、代わった者が任に堪えず、宼は入らぬ年がなく辺境を蹂躙したので、辺の人はいっそう榮らを慕った。翌年、諳逹が京師に迫ったとき、萬逹も榮もすでに去っていた。論者は、二人がいたならば宼はここまで来なかったろうと言った。
- 萬厯年間、榮の孫の詹延が順天通判として上書し榮の功を訴えたので、工部尚書を贈られ、卹は制のとおり与えられた。
劉源清――出自と宸濠の乱
- 劉源清、字は汝澄、東平の人。正徳九年(1514年)の進士。進賢知縣に任じられた。
- 宸濠が反すると、源清は薪を室のまわりに積んで家人に「事が急になれば我が家を焼け」と命じ、逃げた僕一人を自ら刃にかけて晒した。県中の悪少年で賊に通じた者はことごとく杖殺した。
- 宸濠の妃の弟の娄伯が上饒に帰って兵を募ったので、源清はこれを迎え撃って誅した。賊の檄が届くとただちにその使者を斬った。
- 折しも餘干知縣の馬津、龍津驛丞の孫天祐もまた兵を挙げて賊を拒んだ。賊の「七殿下」なる者が龍津で運舟を奪ったので、天祜は戦って数人を殺した。賊の一党が兵を募って龍津を通ったときも、天祐は追って殺し、その船を焼いた。娄氏の家人の一団が西へ下ろうとしたのも天祐に遏められ、七十餘人が捕らえられた。賊兵が湖東を経て両浙を窺うことができなかったのは、この三人の力である。
- 賊が平らげられると、源清は徴されて御史となった。嘉靖の改元にあたり、津もまた入って御史となった。津は滁州の人。福建副使で終わった。
- 源清はまもなく大理丞に遷り、病と称して帰った。
劉源清――宣府巡撫
- 六年(1527年)夏、右僉都御史として宣府を巡撫した。滴水崖の賊、郭春が城に拠って叛き王を称した。源清は兵を遣わして捕らえさせたが気づかれた。副總兵の劉淵が「元凶だけを捕らえよ」と令し、旗を城のまわりに立てて呼ばわると、その一党はみな散り、春らは自ら首を刎ねて死んだ。
- 總兵官の郤永が部下に虐であったので、源清はこれを弾劾して罷めさせた。副都御史に進んだ。
劉源清――大同の攻囲
- 十二年(1533年)、辺警により兵部左侍郎に遷り、宣大・山西・保定の諸鎮の軍務を總制した。
- 大同總兵官の李瑾が天城の左孤店の濠四十里を濬え、工事を急がせたので、兵卒の王福勝らが焼き殺した。ついでに巡撫の潘倣の役所も焼いた。倣は、瑾が変を激発させたと奏した。帝は源清に總兵の郤永とともに討たせた。
- 源清は榜を掲げて解散を命じたが、その榜に「五堡の変では処置が寛大に過ぎた」と述べたので、五堡の残党は大いに懼れた。
- 軍が陽和に至ると、倣らは密かに乱卒を捕らえて十餘人を杖殺し、賊の首魁の王保ら七十餘人を繋いで献じ、凱旋を請うた。源清はかつての胡瓚の件を懲りて、そこで止めようとせず、囚人を御史の蘇祐に付した。囚人は妄りに「前總兵の朱振が職を失って乱を首唱した」と言い、しかも無辜の者を多く引き込んだ。
- 源清は參將の趙綱を城に入れて大捜索させたので、城中に「城はまもなく屠られる」との流言が立ち、乱卒はついに騒ぎ立てて千戸の張欽を殺した。折しも僉事の孫允中が源清のもとから来て源清の意を諭し撫慰したので、ようやく収まった。
- 振は以前、乱卒に擁立されたが実際には反しておらず、源清のもとに詣でて自ら弁明しようとしたが明らかにできず、発憤して自殺した。
- 永の兵が城下に至って大いに掠奪したので、五堡の残党はついに全員叛き、迎え撃って遊擊の曺安を殺した。官軍は四関を攻め拠り、昼夜囲んで撃った。乱卒は前參將の黄鎮らを獄から出して帥に奉じ、死守した。潘倣と鎮國將軍の俊□(底本欠字)らが城に登って攻撃をやめるよう止め、俊□も出て永に会い兵を緩めるよう請うたが、いずれも聴かれなかった。
- 允中が城から縄で降りて出て将士が妄りに殺している状を述べると、源清は叱って「お前は賊のために遊説するのか」と言い、囚えようとした。允中はあえて帰らなかった。源清はそこで巡邏の兵を多く配して王府および有司・軍民の上奏を遏め、さらに援兵を五万まで増やすよう請うた。
- 帝は侍郎の錢如京、都督の江桓に京軍八千を率いて赴かせるよう命じたが、のち急に考え直して取りやめ、もっぱら源清と永に賊の討伐を責めた。
- 倣は疏を馳せて「将士が妄りに殺して変を激発させた。速やかに凱旋させれば乱は収まる」と言い、源清もまた倣が賊に媚びていると謗った。張孚敬は源清を支持し、侍郎の顧鼎臣・黄綰は用兵は誤りだと言った。帝は決しかねた。
- 城の囲みが長引いて城中はひどく困窮し、王府や諸々の役所を壊して炊事の薪とした。兵部が再び安撫の令を下し、源清もまた旗を立てて降を招いたので、叛卒は少しずつ自首し、首悪の黄鎮らも日を分けて出てきて、薪採りの道を通してほしいと乞い、永は承諾した。しかし翌日、薪を採りに出た者を永がことごとく捕らえたので、城中の人はますます懼れ、乱卒はまた叛いて外の宼を引き入れて助けとした。永はこれと遭遇して大敗して逃げた。
- 叛卒はそこで宼の十餘騎を城に引き入れ、代府を指して「これを納延とせよ」と言った。納延とは中国語で大人の意である。城中の人はこれを聞いてみな巷で哭した。
- 翌日、外の宼が東・南の二関を攻め、叛卒がこれと犄角をなした。官軍は決死の戦いをして互いに殺傷があった。宼は叛卒が頼りにならぬと知ると、矛先を返して彼らを撃ち、大いに罵って去った。
- このとき宼の遊騎が南へ掠めて朔州・應州に至った。源清は九辺の兵を募り總制官を増して防がせ、自分は一意に攻城に専念したいと請うたが、帝は許さなかった。源清はそこで百方から攻め、城に穴を掘って毒煙を送り、燻り死ぬ者が重なり合った。さらに水を堰き止めて注ぎ込むことを請うたので、帝は大いに不快となり、その職を奪って閒住とし、兵部侍郎の張瓚を代わりとした。
- 瓚が到着する前に、郎中の詹榮らがすでに首悪を残らず捕らえていた。黄綰が功罪を取り調べ、源清と永こそ罪の首魁であると言い、その賄賂を貪った状を具さに弾劾した。兵科の曾忭らが「宸濠の乱で源清には保障の功があるから、八議の恩宥に浴すべきだ」と言うと、帝は怒って忭らを詔獄に下し、源清を逮えて治罪した。獄は長く決せず、綰が憂で去ったので、死一等を減じて民に落とされた。
- 諳逹が京師に迫ったとき、家から起用されたが、赴任前に卒した。隆慶初め、兵部尚書を贈られた。
劉天和――出自と劉瑾との衝突
- 劉天和、字は養和、麻城の人。正徳三年(1508年)の進士。南京禮部主事に任じられた。劉瑾が御史十八人を黜け、他の曹の二十四人を改めて補ったとき、天和もその中にあった。
- 外に出て陜西を按じた。鎮守中官の廖堂が詔を奉じて蘭州で御用の食物を調えることになったとき、天和は自分の管轄ではないとして辞して赴かなかった。堂は天和が命を拒んだと奏し、詔により逮えられた。管内の民で泣いて見送る者が一万人に上った。
- 詔獄に閉じ込められて長く釈かれなかったが、吏部尚書の楊一清が疏を上って救い、法司は贖杖のうえ復職とすべきだと奏した。しかし中旨により金壇丞に謫された。刑部主事の孫繼芳が上章して救ったが返答はなかった。
- しばしば遷って湖州知府となり、恵政が多かった。嘉靖初め、山西提學副使に抜擢され、しばしば遷って南京太常少卿となった。
劉天和――甘肅・陜西の屯政と河道の総理
- 右僉都御史として甘肅の屯政を督した。肅州の丁壮および山西・陝西の流民を辺境の近くで耕作・牧畜させ、あわせて諸辺に及ぼすよう請うた。まもなく興革すべきもの十事を奏し、田の利は大いに興った。
- 陜西撫に改められ、鎮守中官の撤廃、および民の患いとなっているもの三十餘事の廃止を請い、帝はいずれも従った。
- 洮・岷の番四十二族が騒ぎ立てると、天和は命に従わぬ者を誅した。また湖店の大盜および漢中の妖賊を討ち平げ、その地で右副都御史に進んだ。
- 母の憂で去り、喪が明けて旧官のまま河道を總理した。黄河が南へ移り、濟寧・徐州を経ていずれも溢れていた。天和は汴河を朱仙鎮から沛の飛雲橋まで浚えてその下流を殺ぎ、山東の七十二泉を鳬山・尼山の諸山から南旺湖に達するまで疏通してその下流を濬えた。役夫二万、三カ月とかからずに工事を終え、工部右侍郎を加えられた。
- 旧例では、河南八府は毎年民を河の工事に役し、赴かぬ者は一人銀三両を出した。天和は飢饉の年であることから、河に近くて役に就いた者の課を全免し、河から遠くてまだ役に就いていない者は半減するよう請い、詔により許された。
劉天和――三邊總制と兵車の改良
- 十五年(1536年)、兵部左侍郎に改められ、三邉の軍務を總制した。
- 兵車はいずれも双輪で二十人を要し、険しい地に遇うと動けず、しかも遅くて実用に適さなかった。天和は前總督の秦紘の隻輪車にならい、車上に砲・槍・斧・戟を置き、車箱の前に狻猊の牌、左右に虎の盾を立て、二両を連ねれば三、四十人を蔽え、一人が挽き、押す者と両脇を固める者が各二人。戦うときは騎士をその中に護り、敵が遠ければ火器を放ち、やや近づけば弓矢を発し、さらに近づけば短兵を出し、敵が逃げれば騎兵が追う、という方式を請うた。また車に随う小型の天幕を作って兵が野宿せずにすむようにし、さらに毒を塗った弩矢を作り、辺牆と濠塹を修めた。いずれも従われた。
劉天和――北宼との攻防
- 濟農の十万の衆が賀蘭山の後ろに屯し、別部を遣わして涼州を侵したが、副將の王輔が追ってその纛を奪った。荘浪を侵したときは總兵官の姜奭がしばしばこれを破った。天和は右都御史に進んだ。
- 宼がまた大挙して兵を集め侵入しようとしたとき、天和は宼が□(底本欠字)西に備えがあるので必ず東から来ると読み、密かに延綏副將の白爵に檄して夜行させ、參將の吳瑛と合流させた。宼は果たして東の黒河墩に入り、爵の伏兵に遭って大きな痛手を受けて去った。
- のち蒺藜川に入ったときも爵が後ろから撃って宼は多く死んだ。まもなく宼家澗・張家塔に入ったが、爵と瑛に敗れた。寧夏を犯した者は總兵官の王效がまた破った。帝は大いに喜び、天和を左都御史に進めた。
- 濟農が河西を犯したが、天和はこれを防いで退け、兵部尚書に進んだ。
- 宼が平虜に侵入しようとしたとき、天和は花馬池に兵を伏せた。宼は戦って勝てず黄河のほとりへ逃げたが、伏兵に遭って水に溺れて死ぬ者が多かった。
- 濟農は隙に乗じて固原を侵し、剽掠に飽きたころ、長雨に遭って弓矢がみな膠が緩んで戦意を失った。しかし諸将の多くは畏縮したので、天和は指揮二人を斬り、前總兵の周尚文を召して功を立てさせた。折しも陜西總兵官の魏時が宼と黒水苑で角逐していたので、尚文は精鋭を尽くして挟撃し、濟農の子の小十王を殺した。宼が退くと、寧夏巡撫の楊守禮、總兵官の任傑らがさらに迎え撃ち、鐡柱泉でこれを破った。斬獲はあわせて四百四十餘級であった。
- 功を論じて天和は太子太保を加えられ、子一人が錦衣千戸に廕され、前後して銀幣を賜わること十数回に及んだ。
- 南京戸部尚書に遷り、召されて兵部尚書となり團營を督した。言官が天和の衰老を論じたので、辞職を乞うて帰り、家居三年で卒した。少保を贈られ、諡は荘襄。
- 天和は初めて進士に及第したとき、劉瑾が同宗として名乗り合おうとしたが、辞して赴かなかった。晩年、内召されたとき、陶仲文が名刺を送ってきて縁戚と称した。天和はその名刺を返して「間違いです。私の内外の姻戚にそのような人はいない」と言った。仲文は憤り、彼の罷官にはその力が働いた。
楊守禮――出自と四川廵撫
- 楊守禮、字は秉節、蒲州の人。正徳六年(1511年)の進士。戸部主事に除せられた。
- 嘉靖初め、しばしば遷って湖廣僉事となり、計略により公安の賊魁を捕らえた。事に座して敘州通判に謫され、しばしば遷って右副都御史となり四川を巡撫した。副將の何卿とともに諸番の乱を平げ、銀幣を賜わった。
- はじめ守禮が敘州に貶されたとき、僉事の張文奎に辱められた。ここに至って文奎は四川參議に遷り、守禮が意趣返しをすることを恐れて、先に拾い集めた事を奏した。詔により二人ともに職を解かれて帰った。
- 守禮は才器が敏達で、内外は有能と認めていた。家居して久しくならぬうちに、工部尚書の秦金らが会して推薦したので、河南參政に起用され、再び遷って右副都御史となり寧夏を巡撫した。
楊守禮――三邊總督として
- 宼が固原を犯して總督の劉天和に敗れ、寧夏から去ろうとしたので、守禮は總兵の任傑らとともに迎え撃って破った。
- 折しも天和が召還されたので、守禮を右都御史に進めて軍務を總督させ、これに代えた。前の功を録して兵部尚書に進んだ。
- 總兵官の李義・楊信が続けて濟農を退けたので、三度にわたって璽書と銀幣を賜わった。
- まもなく上疏して辞職を乞うたが、帝は難を避けるものと憎み、俸を二級降した。
- その秋、宼三万騎が綏徳に迫った。遊擊の張鵬がこれを退け、總兵官の吳英らが塞外まで追い、東路參將の周文の兵も至って挟撃して破った。
- 巡按御史の殷學が「宼は内地五百里まで入った。諸将の罪を治めるべきだ」と言ったが、部議では「延綏の遊兵はみな宣府・大同に調発されており、宼はまさに実を避けて虚を撃った。それでも我が寡をもって衆に勝ったのだから、その功を録すべきだ」とした。そこで守禮に太子少保を加え、學は外に謫された。
- 守禮はまもなく憂で去った。諳逹が都城に迫ったとき、廷臣は真っ先に守禮を推薦し、詔により出発を促されたが、宼が退いたので取りやめとなった。久しくして卒した。
張岳――出自と大禘礼の議
- 張岳、字は維喬、惠安の人。幼いころから学を好み、大儒をもって自ら期した。正徳十一年(1516年)の進士に及第し、行人に任じられた。
- 武宗が豹房で病臥したとき、大臣・侍從・臺諫に輪番で宿直させて起居を伺い薬を調べさせ、意外の変に備えるよう請うたが、返答はなかった。同僚とともに南巡を諫めて闕下で杖たれ、南京國子學正に謫された。
- 世宗が即位して旧官に復し、右司副に遷った。母が老いていたので便宜な地での養育を乞い、南京武選員外郎に改められ、主客郎中を歴任した。
- 大禘の礼が議され、張璁は始祖の出自とする者を実際に立てようとし、礼官はみな唯々諾々としていた。岳は尚書の李時に「皇初祖の位を設けるだけにして、実在の人を当てはめないほうがよい」と言った。時は大いに喜んで璁に告げたが、璁はそうは思わず、初めの議のまま上奏した。しかし帝は結局、岳の言のとおり皇初祖の主に題させたので、璁は岳を恨んだ。
張岳――地方官としての事績
- 外に出て廣西提學僉事となった。管内を巡行して柳州に至ったとき、軍が餉を欠いて大いに騒ぎ、城が五日閉ざされた。岳は守城の者に門を開かせ、騒いだ者を召して詰問し、餉を与えて去らせ、まもなく計略により首悪を捕らえて法に処した。
- 賀のため入朝したが璁に謝らなかったので、璁は江西提學に改めさせた。それでも謝らなかったので、璁は廣西の選貢七人を黜け、岳を廣東鹽課提舉に謫した。
- 亷州知府に遷り、民を督して棄てられていた地を開墾させ、桔橰で水を運ぶことを教えた。亷の民には真珠の池で盗みを働く者が多かったが、岳は四年在任して一つの珠も懐に入れなかった。
張岳――安南の莫登庸への対応
- 帝が使者を安南に遣わして莫登庸の主殺しを詰問させようとしたとき、岳は總督の張經に言った、「莫氏が黎氏を簒奪したことは、調べるまでもなく分かる。使者を行かせても侮りの言葉を受けて国を辱めるだけである。使者を留めて先へ行かせぬよう請う」。經は容れなかった。
- 欽州の林希元が上書して莫氏の討伐を決断するよう請うたので、岳は書を送ってこれを止め、さらに討つべきでない六事を条陳し、執政に宛てて書を送った。
- 辺民の報告によれば、黎賙が封を襲いだが嗣子がなく、兄の子の譓を子とした。陳暠が乱をなして賙は害され、暠が簒奪したが、まもなく国人が譓を擁立し、暠は諒山へ走った。譓は立って七年、莫登庸に逼られて升華に出て住んだ。登庸は譓の幼弟の懬を立ててこれを輔け、結局は懬を弑して自立した。
- 国は三つに分かれ、黎は南に、莫は中に、陳は西北にある。のち諒山も登庸の有となり、陳はついに絶えた。黎の居る所は古の日南の地で、占城と隣し、大海に限られている。登庸はこれを越えて南下できないので、両者が併存している。
- 近ごろ登庸はさらに交州をその孫の福海に付し、自らは海東府の地を営んで齋を都として住んでいる。安南の諸府では海東の地が最も大きく、いわゆる王山郡である。
- この賊は簒逆の名を負い、常に兵を練って我に備えつつ、時に入貢を求めると言い触らしている。辺の人は旧王ではないという理由であえて取り次がない。
- 愚考するに、彼の内乱は我を侵犯したことがない。しばらく放置し、乱が定まってから貢を受ければよい。もし必ず兵を用いるというなら、勝敗の利鈍は私の敢えて知るところではない。
- 執政は書を得ても決しかねた。
- のち毛伯温が来て師を視ることになり、張經はもっぱら軍事を岳に委ね、また翁萬逹を才ありとして、二人を伯温に推した。岳は伯温と数日語り、伯温は「交趾の事は君に任せる」と言い、岳の議のとおり登庸の降を許した。
- 折しも岳は浙江提學副使に遷り、さらに參政に遷ったが、伯温が疏を馳せて留任を求めたので、廣東參政に改められ海北を分守した。登庸が降ると岳は俸一級を加えられ、銀幣を賜わった。まもなく瓊州の叛黎を征した功により、俸の加増と賜与を同様に受けた。
張岳――兩廣總督としての討伐
- 塞上に事が多く、言官が岳を辺境の才として推薦したとき、伯温は「岳は南に、翁萬達は北に用いるべきだ」と言った。そこで岳は右僉都御史に抜擢されて鄖陽を撫治し、まもなく江西撫に移り、右副都御史に進んで兩廣の軍務を總督し巡撫を兼ねた。
- 廣東封川の獞の蘇公樂らを討ち破り、兵部右侍郎に進んだ。
- 廣西馬平の諸縣の猺賊を平げ、前後して四千を捕らえ斬り、二万餘人を招き撫し、賊魁の韋金田らを誅し、俸一級を増された。
- 召されて刑部右侍郎となったが、御史の徐南金の言により留任を命じられた。
- 連山の賊、李金と賀縣の賊、倪仲亮らが衡州・永州・郴州・桂陽に出没して三十年、平定できなかった。岳は大いに兵を合わせて討ち、これを捕らえた。□(底本欠字)鎮すること四年、大宼はことごとく平げられた。召されて兵部左侍郎を拝した。
張岳――蜡爾山の苗の平定
- 湖廣と貴州の間に蜡爾という山があり、諸苗が住んでいた。東は鎮溪千戸所と筸子坪長官司に属して湖廣に隷し、西は銅仁・平頭の二長官司に属して貴州に隷し、北は四川の酉陽に接し、広さ数百里に及ぶ。諸苗はしばしば反し、官兵は制御できなかった。
- 侍郎の萬鏜が征すること四年、克てず、その魁の龍許保に冠帯を授けた。湖の苗はしばらく静まったが、貴州の苗は以前どおり反した。鏜が凱旋すると、龍許保およびその一党の吳黒苗が再び乱をなした。
- 貴州巡撫の李義壮が警を告げたので、岳に湖廣・貴州・四川の軍務を總督して討たせ、右都御史に進めた。義壮は鏜の議を守って撫そうとしたので、岳は彼が兵を阻んでいると弾劾して罷めさせた。
- 義壮より前に貴州を撫した僉都御史の王學益は、鏜とともに嚴嵩に付いて撫議を主張し、しばしば中から岳を妨げたが、岳の主張はいっそう堅かった。
- 許保が印江知縣の徐文伯、および石阡推官の鄧本忠を襲って捕らえて去ったので、岳は連座して俸を停められた。そこで總兵官の沈希儀、參將の石邦憲らに道を分けて進ませ、自ら銅仁に入って督した。前後して賊魁五十三人を斬ったが、許保と黒苗だけは逃げて捕らえられなかった。
- 岳は勝報を上り、貴州の苗は次第に平らぎ、湖の苗は撫に従ったので、土兵を帰農させたいと述べ、朝議は許した。
- まもなく酉陽宣慰の冉元が許保・黒苗をそそのかして思州を衝かせ、知府の李允簡を捕らえて連れ去った。邦憲の兵が迎え撃って允簡を奪い返したが、允簡は結局死んだ。嚴嵩父子はもとより岳を恨んでおり、逮えて治罪しようとしたが、徐階が不可としたので、右都御史を奪って兵部侍郎として師を督させた。
- 邦憲らはまもなく賊を破り、岳が山や竹藪を捜索すると、残った賊が思州の印と許保を差し出した。湖廣の兵もまた破って首悪の李通海らを捕らえた。岳は黒苗を捕らえていないので、あえて功を報告しなかった。
- やがて冉元の謀が露見したので岳がその奸を摘発した。元は嚴世蕃に賄賂を贈り、岳が苗の一党を絶つよう責めさせた。邦憲はついに黒苗を捕らえて献じ、苗の患いはようやく息んだ。
- 岳は沅州で卒した。喪が帰るとき、沅の人で迎えて哭する者が絶えなかった。のち功を叙して右都御史に復し、太子少保を贈られ、諡は襄惠。
- 岳は博覧で文章に巧みで、経術に深く通じた。王守仁の学を好まず、程朱を宗とした。
李允簡(附伝)
- 李允簡、融縣の人。挙人から身を起こした。郡境に宼が多いので妻子を帰らせ、ひとり孫の炳文と住んでいたが、祖孫ともに捕らえられた。許保は彼を抱えて厚い身代金を求めた。允簡は石邦憲に速やかに進兵するよう伝言し、賊の中で自ら高い崖から身を投げた。賊は引き出して路傍に棄てた。思州の人が舁いて帰ったが、清浪衛に至って卒した。詔により貴州副使を贈られ、祭𦵏を賜わり、子一人に官を与えられた。
出自と直言
- 郭宗臯、字は君弼、福山の人。嘉靖八年(1529年)の進士。庶吉士に選ばれたが、まもなく詔により選に与った者はみな改めて任じられることとなり、刑部主事を得た。御史に抜擢された。
- 十二年(1533年)十月、星が雨のように隕ち、まもなく哀冲太子が薨じ、大同で兵乱が起こった。宗臯は、帝に寛厚を敦く崇び忠言を聴き納れ、もっぱら厳明をもって治とせぬよう勧めた。帝は大いに怒って詔獄に下し、杖四十のうえ釈いた。
- 蘇州・松江・順天を按じ、管内を巡行するのに馬に乗り、輿には乗らなかった。
- 折しも廷議で保定巡撫の劉䕫を院事の管理に還すことになったとき、宗臯は「䕫はかつて大學士李時の子を推薦した。諂媚で行いがなく、風紀の任には堪えない」と論じたので、俸両月を奪われた。
順天・大同の巡撫として
- まもなく外に出て雁門兵備副使となり、陜西參政に転じ、大理少卿に遷った。
- 二十三年(1544年)十月、宼が萬全右衛に侵入して廣昌に迫り、営を四十里に連ねた。順天巡撫の朱方が獄に下されたので、宗臯が右僉都御史に抜擢されて代わった。宼はすでに去っていた。
- 宗臯は言った、「密雲は最も要害であり重兵を置くべきである。馬蘭・太平・燕河・三屯に敕して毎年千人を出し、五月に密雲へ赴かせ、警があれば總兵官が自ら率いて援けに向かうようにされたい。居庸・白楊は地が要でありながら兵が弱く、警に遇えば必ず部の奏を待つことになって間に合わない。あらかじめ借調の法を定め、建昌・三屯の軍は平時は密雲を協助し、警に遇えば居庸に移駐させたい」。いずれも許された。
- 久しくして宗臯は、敵騎四十万が道を分けて侵入しようとしていると聞き、京營・山東・河南の兵を援軍として調えるよう奏したが、結局実がなかったので、俸一年を奪われた。
- 旧例では京營が毎年五軍を出して薊鎮の防秋に赴かせていた。宗臯は三軍を罷め、その犒軍の銀を当鎮の募兵の費用に充てるよう請うた。また辺の修築の余った銀を出して燕河營・古北口を増築するよう請うた。帝は着服があるのではと疑い、罷めて帰らせ取り調べを待たせた。のち事情が明らかになり、旧官に起用されて大同を巡撫し、宣府巡撫の李仁と鎮を交換した。
- まもなく兵部右侍郎に進み、宣大・山西の軍務を總督した。諳逹の三万騎が萬全左衛を犯し、總兵官の陳鳳、副總兵の林椿が鷂兒嶺で戦い、殺傷は互角であったが、宗臯は連座して俸を奪われた。
- 翌年また大同を犯し、總兵官の張逹および椿がいずれも戦死した。宗臯と巡撫の陳燿は連座して俸を奪われた。給事中の唐禹が戦死の状を追及して論じ、あわせて「全軍が残らず陥ったのは数十年来なかった大敗である」と言った。帝はそこで宗臯と燿を逮えてそれぞれ杖一百を加え、燿はそのまま死に、宗臯は陜西靖虜衛に戍られた。
- 隆慶の改元(1567年)、戍所から起用されて刑部右侍郎となり、兵部に改められ戎政を協理し、まもなく南京右都御史に進み、その地で兵部尚書に改められ機務に參贊した。給事中の荘國禎が宗臯の衰えと無能を弾劾し、宗臯自身も老齢を理由に辞職を求めたので、詔により許された。
- 萬厯年間、二度にわたって安否を問われ、毎年、廩米と従者を給された。十六年(1588年)、宗臯は九十歳となり、また行人を遣わして安否を問われた。その年に卒した。太子太保を贈られ、諡は康介。