明史卷一百九十六 列傳第八十四 方獻夫

南海の人、字は叔賢。二十歳で進士となり、王守仁に学んで弟子となり、西樵山中で十年読書した。大禮の議で興獻帝を皇考とすべしとする疏を草し、桂萼が席書の疏とあわせて上げたことで世宗の寵を得た。侍講學士から禮部尚書・吏部尚書を経て武英殿大學士として入閣し、張璁・桂萼と並んだ。同じ礼を議した一派でありながら論は平明寛恕で、葉應驄らの逮捕を免れさせ、王守仁の築城の功を弁護し、外戚の世襲の封を永久に廃止させた。たびたび弾劾されて辞職し、家居十年で没した。太保を贈られ、諡は文襄。

年表(8件)
  • 嘉靖元年還朝の途上で大禮の疏を草すが上げられず、桂萼が席書の疏とあわせて上げる
  • 嘉靖四年冬少詹事に進むが、落ち着かず病と称して帰郷する
  • 𢎞治十八年1505年二十歳で進士となり庶吉士に改まる
  • 嘉靖六年『明倫大典』の編纂のため召され、李福達の獄を再審して馬録の死罪を減じさせる
  • 嘉靖六年九月禮部右侍郎に任ぜられ、のち吏部左侍郎・禮部尚書に進む
  • 嘉靖十年秋召し戻す詔が下るが辞退し、梁材・汪鋐・王廷相を後任に推す
  • 嘉靖十一年五月入京し、旧官のまま武英殿大學士を兼ねて内閣に入る
  • 嘉靖十一年十月彗星が東井に現れ、御史の馮恩に凶悪奸邪と誹られる

出自と大禮の上疏

  • 方獻夫は字を叔賢といい、南海の人である。生まれてまもなく父を失った。二十歳で𢎞治十八年(1505年)の進士となり、庶吉士に改まったが、母の養育のため帰郷を願い、そのまま母の喪に服した。
  • 正徳のうちに禮部主事に任ぜられ、吏部に移って員外郎に進んだ。主事の王守仁と学を論じて心服し、そこで弟子となることを願った。まもなく病と称して帰り、西樵山中で読書すること十年。
  • 嘉靖改元の夏、還朝の途上で大禮の議がまだ定まらないと聞き、疏を草して述べた。
  • 先王が礼を制したのはもともと人情に基づく。君子が事を論ずるには名実を究めるべきである。近ごろ礼官の議に、人情に合わず名実に当たらぬところがあると見るのは、一つは礼経の言を守り、一つは宋儒の説に従っているからである。臣はそうは思わない。
  • 『礼経』喪服伝に「どういう者が人の後となれるか。支子ならよい」とあり、また「人の後となる者は誰の後となるのか。大宗の後となるのである。大宗は尊の統だから絶やしてはならない。ゆえに族人は支子をもって大宗の後とする。適子は大宗の後となれない」とある。この礼の意は、支子があってはじめて人の後となれるということで、人の後を絶ってまで人の後とした例はない。いま興獻帝は陛下ただ一人を生み、他に支庶はない。それでその後を絶って孝宗の後とするのは、人情にかなうか。
  • しかも人の後となる者は、父がかつてこれを子として立て、子がかつてこれに父として仕えたのであり、だから没して喪服を着る。いま孝宗にはかつて武宗があり、陛下を子とされたことはない。陛下は孝宗に三年の喪服を着られたことがない。実は孝宗の後となっていないのに、無理に「考」と称するのは、名実にかなうか。この議をなす者は礼経の言に合っていない。
  • また程頤の濮議は「英宗は既に仁宗を父としたのだから、濮王を親としてはならない」と言う。これは宋儒の説がよくないのではなく、今日の事情が違うのである。仁宗はかつて英宗を宮中で養い、実に父子であった。孝宗は陛下を宮中で養われたことがない。違いの一である。孝宗には武宗という子があったが、仁宗には子がなかった。違いの二である。濮王には他に子があって絶えずに済んだが、興獻帝には他の子がない。違いの三である。どうして濮王の事を今日の事に比べられよう。この議をなす者は宋儒の説をよく祖述していない。
  • また、孝宗に後がなくてはならないから必ず陛下を子とすべきだと言うのは、なおさら大道に通じていない。孝宗が必ず後を得ようとされる心を推せば、それは祖宗の祀りを絶やさず、天下社稷の重きを失わせぬというだけのことである。どうして父子の称にこだわってこそ後があると言えようか。孝宗には武宗があり、武宗には陛下がある。これで祖宗の祀りは絶えず、天下社稷の重きは失われていない。これこそ実に後があるということである。しかも武宗は天下に君たること十六年である。孝宗に後がないのは忍びずして、武宗に後がないのは忍べるのか。これは通らぬ説である。
  • そもそも興獻帝は父とすべきなのに父とできず、孝宗は父とすべきでないのに無理に父と称し、武宗は継ぐべきなのに継げない。一挙にして三つの誤りがある。臣にはよいとは思えない。
  • しかも天下に父のない国はない。瞽瞍が人を殺せば舜は父を背負って逃げたであろう。いま陛下に父を捨てて天下を持たせるとして、陛下はどういう心持ちでおられようか。臣は、陛下の純孝の心は、天下を持たなくとも、父を父とせぬことは決して忍ばれまいと存ずる。
  • 論者はまた興獻帝を「帝」と称すべきでないと言う。これもなおさら大道に通じていない。孟子は「孝子の極致は親を尊ぶより大きなものはない」と言い、周公は太王・王季を追王し、子思はこれを達孝とした。子が天子でありながら父が帝と称せられぬ道理があろうか。
  • 今日の事について臣はかつてこう説いた。陛下が二宗を継がれるのは統を継ぐのであって嗣を継ぐのではない。興獻が諸廟と異なるのは、帝と称して宗と称さぬ点にある、と。帝王の体は士庶とは異なる。統を継ぐのは天下の公であり三王の道である。嗣を継ぐのは一人の私であり後世の事である。興獻が帝と称せるのは陛下が天子だからであり、宗と称せぬのは実際に位に就かれなかったからである。
  • 伏して乞う、朝臣に宣示して、あらためて孝宗を「皇伯」、興獻帝を「皇考」と称し、別に廟を立ててこれを祀られたい。そうしてこそ人情にかない名実に当たり、先王の礼を制した意を得るばかりでなく、陛下の純孝の心も遂げられる、と。
  • 疏はできあがったが、廷臣がちょうど異論を排撃しているところだったので、恐れて上げられなかった。それを桂萼が見て、席書の疏とあわせて表を添えて上げた。
  • 帝は大いに喜び、ただちに廷議に下した。廷臣は方獻夫を奸邪と見なし、往来もしなくなった。方獻夫は門を閉じて休暇を請うたが許されず、そこで『大禮』上下二論を進めて、その説をいっそう詳しくした。
  • このとき既に張璁・桂萼を南京から召しており、到着すると翰林學士に任じ、方獻夫は侍講學士に任じた。攻撃が四方から起こり、方獻夫も力辞したが、帝は結局これらの人々の議を用いて大禮を定めた。これによって方獻夫は帝の寵を受け、張璁・桂萼と並んだ。
  • 四年冬、少詹事に進んだ。方獻夫はどうしても落ち着かず、病と称して帰郷した。

『明倫大典』の編纂と大理での審理

  • 六年、『明倫大典』の編纂のため召された。方獻夫は霍韜と同郷で、礼を議したことで親しく、また同時に召しに応じたので、連名で上疏して述べた。
  • 古来、人の後となる議を力説した者は、宋では司馬光より甚だしい者はなく、漢では王莽より甚だしい者はない。濮議を主張したのは司馬光が首で、吕誨・范純仁・吕大防がこれに付き、司馬光の説が人を惑わすこと最も甚だしい。哀帝の議を主張したのは王莽が首で、師丹・甄邯・劉歆がこれに付き、王莽の説が毒を流すこと最も深い。宋儒は王莽の説を祖述して万世を惑わし後学を誤らせた。
  • 臣らは『漢書』『魏志』『宋史』から王莽・師丹・甄邯の奏とその事の始末、および魏の明帝の詔、濮園の議論を採録して正した。纂修官に付して照らし合わせ検討させ、天下の臣子に、人の後となる議が実は王莽に起こり、宋儒の論が実は王莽から出ていることを知らしめ、下は群疑を洗い、上は聖孝を彰かにされたい、と。詔によりその書は史館に下された。
  • 還朝してまもなく大理寺の事務を代行するよう命ぜられ、張璁・桂萼とともに李福達の獄を再審した。桂萼らは馬録を重罪にしようと議したが、方獻夫が力争して死罪を減じさせた。
  • その年九月、禮部右侍郎に任ぜられ、なお學士を兼ねて經筵・日講に侍した。まもなく桂萼に代わって吏部左侍郎となり、さらに代わって禮部尚書となった。『明倫大典』が成ると太子太保を加えられた。

寛平な処置

  • 方獻夫は張璁・桂萼に比べれば性格が寛やかで公平であり、事に当たって時には自説を守り、すべてを迎合したわけではない。
  • 桂萼が陳洸の獄を覆して審理官の葉應驄らをすべて逮捕して取り調べるよう請うたとき、方獻夫の言によって多くが逮捕を免れた。
  • 思恩・田州が続けて乱れたときは、方獻夫は王守仁に専任させ、鎮守中官の鄭潤と總兵官の朱騏を罷めるよう請い、帝は鄭潤・朱騏を召し戻した。思恩・田州が平定されて王守仁が築城と邑の設置を議したとき、桂萼は痛烈に誹ったが、方獻夫がその功状を歴々と述べたので、築城は取りやめずに済んだ。
  • 張璁・桂萼が楊一清と争ったとき、方獻夫は災異に託して和衷の説を進め、あわせて左遷・戍役・削籍となった余寛・馬明衡らを召し戻し、進士の定員を倍にするよう請うた。帝は手厚い詔で答えたが、余寛らは結局用いられなかった。
  • 方獻夫は尼僧や道姑が風俗を害するとしてすべて改嫁させるよう請い、帝は従った。また霍韜の言により、度牒のない僧道をすべて整理し、私に建てられた寺観を壊させた。
  • 帝が陳后の喪を簡略にしようとしたとき、方獻夫は礼を引いて固く争った。
  • まもなくまた桂萼に代わって吏部尚書となった。

党籍の整理と外戚の封の廃止

  • 桂萼・張璁が政から退けられたとき、詔で吏部に二人の私党を調べさせた。方獻夫は述べた。陸粲らが弾劾した百十人には冤罪でない者が少なくない。かつて張璁・桂萼を攻めた者を党として除き、いま張璁・桂萼に付いた者をまた党として除く。搢紳の禍はいつ終わるのか、と。そして黄綰ら二十三人の留任を奏し、儲良才ら十二人を退けた。
  • 儲良才ははじめ御史で、考察によって退けられると上疏して楊廷和を誹り、吏部侍郎の孟春らを奸党と指弾した者である。桂萼がそれを理由に復職を請うていたが、このとき退けられたので、世論は快哉を叫んだ。
  • 安昌伯の錢維圻が没し、庶兄の維垣が爵位の継承を請うたとき、方獻夫は「外戚の封は世襲すべきでない」と述べ、漢・唐・宋の事例を歴々と引いて証とした。帝はその言を善しとし、廷議に下して、外戚の世襲の封は永久に廃止された。

弾劾と辞任

  • 張璁・桂萼が召し戻されたのち、羽林指揮の劉永昌が都督の桂勇を弾劾したが、その言葉は桂萼と兵部尚書の李承勛にも及んだ。さらに御史の廖自顯を弾劾して廖自顯は逮えられ、続いて兵部郎中の盧襄らを告発した。方獻夫は劉永昌を取り調べ、奸人が根拠のない言で善良の輩を陥れられぬようにするよう請うたが、帝は従わなかった。方獻夫はそこで辞職を求めたが、帝は許さなかった。
  • 給事中の孫應奎が、方獻夫が親しい大理少卿の洗光と太常卿の彭澤に私していると弾劾したが、帝は聞かなかった。
  • 都給事中の夏言もまた、方獻夫が選任の法を壊し、張璁の憎む浙江參政の黄卿を陝西に移して張璁の愛する党以平を代わりに用い、風向き次第の彭澤を等級を越えて太常に躍進させ、他にも私している形跡があるとして、賄賂の授受を疑って弾劾した。
  • 疏が入ると帝は黄卿らをもとの官に戻せと命じた。方獻夫と張璁が上疏して弁明し、そのうえで辞職を申し出たので、帝は二人の意に背くのを重んじて、また黄卿らを前の擬案どおりにさせた。

言路をめぐる争いと入閣

  • ほどなく給事中の薛甲が「劉永昌のような武人が冢宰を弾劾し、張瀾のような軍余が勲臣を弾劾する。下が上を凌ぎ、どこまで行くか分からない。廉遠堂高の義を保ち、小人がみだりに攻撃できぬようにされたい」と述べた。
  • 章が吏部に下されると、方獻夫らは薛甲の言に従い、都察院に勅して吏民が虚言を弄して政を乱すのを厳禁し、あわせて両京の給事中・御史および天下の撫按の官に、事を論ずるにはまず大体を重んじ、細かい瑕を責めぬよう申し渡すよう請うた。
  • ところがこのとき帝はちょうど耳目を広げて百官の実情を知りたいと思っていたので、方獻夫の議を得て不快とし、退けた。
  • そこで給事中の饒秀が薛甲を迎合していると弾劾して述べた。劉永昌の件以来、言官が大臣を議したのは、夏言・孫應奎・趙漢が張璁・方獻夫に及んだだけである。趙漢は既に叱責を受けた。夏言・孫應奎の奏はいずれも人の用い方と政の行い方の誤りを述べたものなのに、薛甲はそれを細事のあげつらいと決めつけ、大臣を称え続けている。郭勛のように貪欲放縦な者でも人に言われるのを嫌う。必ず大臣を横行させ群臣に口を閉ざさせて、万一その中に逆心のある者が混じっていたらどうするのか、と。
  • 奏が入ると帝は内心その言を善しとし、吏部に再議させた。薛甲が上疏して弁明すると、帝は部の上奏を待たなかったことを憎み、二階級を削って外に出すよう命じた。部が「薛甲は既に処分されたので改めて議さない」と述べたところ、帝は責めて申し開きさせ、方獻夫の俸を一か月停め、郎官はその倍とした。
  • 方獻夫は面白からず、二度上疏して病を理由に辞職を願い、帝はただちに許したが、なお席を空けて待った。
  • 十年秋、召し戻す詔が下ると、方獻夫は上疏して辞退し、梁材・汪鋐・王廷相を後任に推した。帝は手詔で褒めて答え、行人の蔡靉を遣わして促した。蔡靉が門に至ると方獻夫はひそかに西樵に入り、病と称して辞退した。やがて再度の使いが来て、別の任に用いるとのことだったので、ようやく出立した。
  • 翌年五月に入京し、旧官のまま武英殿大學士を兼ねて内閣に入り輔政するよう命ぜられた。
  • はじめ方獻夫に「忠誠直諒」の銀章を賜り、密封して上奏させていたが、方獻夫は帰郷のとき返上していた。このときまたもとどおり賜った。
  • 吏部尚書の王瓊が没すると、方獻夫にこれを掌らせた。

龔大稔の告発と晩年

  • 方獻夫は家居のとき体裁ぶって尊大に構え、監司が拝謁に来ても病と称して応じなかった。家人や姻族が郡中で横暴を働き、郷人がたびたび訴え、僉事の龔大稔がこれを取り上げた。
  • 方獻夫は還朝すると龔大稔に手心を頼んだ。折しも龔大稔が事に坐して職を落とされたので、方獻夫の仕業ではないかと疑い、上疏してその不法数事を列挙し、言葉は霍韜にも及んだ。方獻夫が上疏して弁明し、帝はちょうど方獻夫を寵していたので、龔大稔は逮えられて削籍された。
  • 十月、彗星が東井に現れた。御史の馮恩が「方獻夫は凶悪で奸邪、巧弁を弄し威福を操っており、国家に害をなすであろう。ゆえに方獻夫が吏部を掌って彗星が現れたのだ」と誹ったので、帝は怒って獄に下した。方獻夫もまた病を理由に辞職を願ったが、手厚い詔で許されなかった。
  • 方獻夫は淡泊で退くという名を飾っていたが、続けて弾劾されて内心恥じ入り、大政を執っていても気力は萎えて振るわなかった。ただ帝が張延齡を殺そうとしたときだけは力争した。
  • そのころ桂萼は既に没し、張璁は最も寵を受けながらも罷免されたことが幾度もあり、霍韜・黄宗明は事を言って一度当たらぬだけで役人の取り調べに下された。方獻夫は帝の恩威が測りがたいのを見て、在職二年、三度上疏して病を理由に辞職を願った。帝は手厚い詔で許し、駅伝と路銀を給した。
  • 家居十年で没した。既に柱國・少保を加えられていたので、太保を贈られ、諡は文襄である。
  • 方獻夫は礼を議したことで急に貴顕となったが、張璁・桂萼と事をともにしながら論はかなり平明寛恕であったので、人にさほど憎まれなかった。