明史卷一百九十六 列傳第八十四 桂萼
饒州安仁の人、字は子實。気性が剛く、知縣のころからたびたび上官に逆らった。南京刑部主事のとき同僚の張璁とともに大禮の議を唱え、執政を「不道」と決めつける激しい上疏で世宗に召された。翰林學士から吏部尚書、さらに武英殿大學士として機務に参じ、張璁と並ぶ寵臣となる。陳九疇・李福達・陳洸の獄で報復を重ね、推挙した王守仁さえ後には力ずくで妨げた。一度は賄賂の嫌疑で失脚するが復権し、致仕して没した。諡は文襄。
年表(12件)
- 嘉靖二年十一月に上疏し、孝宗を皇伯考・興獻帝を皇考と称するよう請う
- 嘉靖三年正月帝が手ずから批して、その議を議して行えと命ずる
- 正徳六年1511年進士となり丹徒知縣に任ぜられる
- 嘉靖三年三月第二の上疏が張璁の疏と同時に上がり、京に召されて翰林學士となる
- 嘉靖四年春柯維熊に小人と誹られて辞職を願うが、手厚い詔で慰留される
- 嘉靖六年三月禮部右侍郎に進み、京察の拾遺で自らも弾劾されて言路の粛清を求める
- 嘉靖六年九月吏部左侍郎を経て禮部尚書兼翰林學士となり、尚書の學士兼帯の例を開く
- 嘉靖七年正月太子太保を加えられ、『明倫大典』が成って少保兼太子太傅を加えられる
- 嘉靖八年二月本官のまま武英殿大學士を兼ねて機務に参ずる
- 嘉靖八年陸粲に賄賂を弾劾され、官を奪われて尚書のまま致仕する
- 嘉靖九年四月還朝して奪われた官をすべて復し、なお機務に参ずる
- 嘉靖十年正月辞職が容れられて帰り、家で没する。太傅を贈られ諡は文襄
出自と大禮の建議
- 桂萼は字を子實といい、饒州安仁の人である。正徳六年(1511年)の進士で、丹徒知縣に任ぜられた。気性が剛く意気に任せて上官にたびたび逆らい、青田に移されたが赴任しなかった。推薦により武康の知縣に起用されたが、また上官に逆らって役人の取り調べを受けた。嘉靖のはじめ成安知縣から南京刑部主事に遷った。
- 世宗が生父を尊崇しようとしたのに廷臣が力ずくで押しとどめ、既に興獻王を帝、妃を興國太后と称して詔を頒つこと二年になっていた。
- 桂萼は張璁と同僚であったので、二年十一月に上疏して述べた。
- 臣が聞くに、帝王は父に孝であるから天に仕えて明らかであり、母に孝であるから地に仕えて審らかである。父子の倫を廃して天地に仕え百神を主る者があったとは聞かない。
- いま礼官は典章の考証を誤り、陛下の純孝の心を遏め、陛下を「人の後となる」誤りに引き入れ、武宗の統を滅ぼし、獻帝の宗を奪い、しかも興國太后を慈壽太后の下に押さえつけている。礼が尽くされず、三綱がたちまち廃れる、非常の変事である。
- ところが張璁・霍韜が議を献じてから、論者はこれを立身の企てと決めつけ、人の口を封じたので、礼に通じた者も反論できなくなった。
- 思うに陛下は興國太后に侍しながら、興獻帝が祀られないことを嘆かれること既に三年、胸を打って涙を流されたことが幾度あったか知れない。
- 速やかに明詔を発して孝宗を「皇伯考」、興獻帝を「皇考」と称し、大内に別に廟を立て、興國太后の礼を正して聖母と称することを定められたい。そうしてこそ天に仕え地に仕える道にかなう。
- 朝臣の主張するところは宋の濮議にすぎない。だが宋の范純仁は英宗に「陛下は先に仁宗の詔を受け、みずから子となることを許された。封爵に至るまですべて皇子の故事を用いられた」と告げた。これは入って統を継いだ君とは異なるのであって、宋臣の論にもおのずと区別がある。いま陛下は祖訓を奉じて大統を継いで入られたので、孝宗の詔を受けてその子となったのではない。陛下が人の後となったのではなく統を継いで入った君であることは極めて明らかである。興獻帝を考とし興國太后を母とすることに何の疑いがあろう。
- 臣が聞くに、天子でなければ礼を議さず、天下に道あれば礼楽は天子から出る。臣は久しくこれを請おうと思っていたが、このたび席書・方獻夫の二疏を得た。奮って裁断され、臣と二臣の疏をあわせて礼官に付し、臣らに面と向かって論じさせられたい、と。
- 帝は大いに喜び、翌年正月、手ずから批して議して行えと命じた。
第二の上疏と召命
- 三月、桂萼はまた上疏して述べた。古来、帝王が相継ぐには統が重く嗣は軽い。ゆえに髙皇帝は前王の法に則って「兄終われば弟継ぐ」の訓を著された。陛下が祖宗の大統を承けられたのは、まさに髙皇帝の制に従ったものである。執政はゆえなく私意を通し祖訓に背いた。その不道は言うも愚かである。
- 臣が聞くところでは、執政は陛下の至情を推し量り、やむを得なければ「皇」の一字を加えるだけにしようとしているという。そもそも陛下がその親に孝であるかどうかは「皇か皇でないか」にあるのではなく、「考とするかしないか」にある。獻帝を考とする心を奪われるなら、たとえ千字百字の美称を加えても孝に何の益があろう。陛下は生涯、父なき人となってしまう。倫を逆さにし義に背くことがこのようであって、なおこの議に加わらせてよいものか、と。
- 張璁の疏と同時に上げられ、帝はいよいよ大いに喜び、京に召した。
- はじめ礼を議した諸臣に執政を厳しく誹る者はなかったが、桂萼に至って「不道」と決めつけ、しかも議に加わらせまいとした。その言葉は放縦で憚りがなく、朝廷の士はとりわけ憎んだ。召命が下ると衆はいよいよ驚き、こぞって排撃したが、帝は動じなかった。桂萼はまた張璁とともに論じてやまず、ついに翰林學士に召され、その言のとおりに決着した。桂萼はこれ以来とりわけ深く知遇を得た。
嘉靖初年の建言と京察
- 四年春、給事中の柯維熊が「陛下は君子に親しむと言われるが君子は容れられない。林俊・孫交・彭澤が去ったのがそれである。小人を遠ざけると言われるが小人はなお在る。張璁・桂萼が用いられているのがそれである。しかも今、闕下に伏した諸臣の多くが死に、あるいは流され、御史の王懋・郭楠までが左遷された。罰が重すぎると思う」と述べた。桂萼と張璁は辞職を求めたが、手厚い詔で慰留された。
- まもなく詹事兼翰林學士に進み、世廟の神道および太后の廟参りの礼を議して、また廷議を排して帝の意に合わせたので、帝はいよいよ賢と見た。
- 二人の気勢はいよいよ盛んになったが、閣臣がこれを抑えて諸翰林と同列にさせなかったので、二人は連名で費宏を攻め、あわせて石珤も追い落とした。
- 給事中の陳洸が重罪を犯したとき、桂萼は尚書の趙鑑と腕まくりして争い、南京の給事中に弾劾されたが問われなかった。
- かつて時政を陳べ、あらかじめ六年分の田租を免ずること、即位当初の積弊をさらに改めること、登聞鼓の禁を緩めること、辺境の開中の制を復すること、養濟院を妨げる奸徒を懲らすこと、窮民に城壁の空き地の耕作を許すこと、地方官が中央に出向いての考課を停めること、聖敬を申べ聖孝を広めることなど数事を請い、多くが議のうえ施行された。
- 六年三月、禮部右侍郎に進み兼官はもとのままとした。ちょうど京察が行われ、南京の言官の拾遺が桂萼にも及んだ。
- 桂萼は上言した。前の輔臣・楊廷和が広く私党を植えて聖聴を蔽ったこと六年、いま順次追放されているが、なお残った奸物が言路にいる。かつて憲宗の初年に科道に拾遺を命じ、のち互いに糾弾させたところ言路は清まった。制度どおり行うよう請う、と。
- 上章は吏部に下され、侍郎の孟春らは「憲宗にそのような詔はない。桂萼は弾劾されたことへの報復であって、衆心を納得させられない」と述べた。桂萼は「詔は憲宗の文集に出ている。孟春は言官に媚びようとしている。あわせて取り調べるべきだ」と述べた。
- 章は再び部に下されて審議され、孟春らは「成化のうちに科道から巡撫に特進した者で任に堪えぬ者があり、憲宗が互いに弾劾させて七人が去った。考察の拾遺とは比べられない」と述べた。だが帝は結局桂萼の言を是として、速やかに実施するよう促した。給事中・御史が争ったので、いずれも俸を奪われた。
- 孟春らはやむなく御史の儲良才ら四人の名を上げた。帝は儲良才だけを退け、特旨で給事中の鄭自璧・孟奇を退け、さらに部と院に再調査させ、給事中の余經ら四人、南京給事中の顧溱ら数人を退けて、ようやく収まった。
吏部尚書としての報復
- その年九月、吏部左侍郎に移り、同じ月に禮部尚書兼翰林學士に任ぜられた。故事として尚書が學士を兼ねた例はなく、桂萼に始まる。
- 一か月余りで吏部尚書に遷り、銀の章二つを賜った。文は「忠誠靜慎」「繩愆匡違」で、密封して事を言上できるようにされ、輔臣と同格であった。
- 七年正月、手勅で太子太保を加えられ、『明倫大典』が成ると少保兼太子太傅を加えられた。
- 桂萼は志を得ると、日々怨みに報いることを事とした。陳九疇・李福達・陳洸の獄では、前後して彭澤・馬録・葉應驄らを巻き添えにした者が極めて多く、陥れられて流刑・戍役に至る者もあった。廷臣でその凶暴な威勢を畏れない者はなかった。
- ただし直言によって罪を得た鄧繼曾・季本ら、事に連座して左遷された黄國用・劉秉鑑らを上疏して推薦し、これらの人々は近い地に移された。世間もいくらかこの点で桂萼を賢とした。
- しかし王守仁の起用は実は桂萼が推薦したものであったのに、王守仁が自分に付かないのを恨んで力ずくで妨げ、王守仁が没すると口を極めて醜く誹り、その世襲の封を奪い、恤典もすべて与えなかった。
郭勛との関係、失脚と復権
- 八年二月、本官のまま武英殿大學士を兼ねて機務に参ずるよう命ぜられた。
- はじめ桂萼と張璁が召しに応じたとき、廷臣は先朝の馬順の故事に倣って左順門で撲殺しようとした。二人は武定侯・郭勛の家に走って難を免れたので、郭勛とは深く結びついた。郭勛もまた帝の寵を受けて長く禁兵を掌った。
- 郭勛の悪事が大いに露見すると、張璁と霍韜は力ずくで郭勛をかばったが、桂萼は帝が既に郭勛を憎んでいると知り、ひとり郭勛の凶暴・貪欲・狡猾の数事を上疏したので、郭勛は罪を得た。
- 楊一清が首輔となると重厚さを旨としたので、紛らわしく変えるのを好む桂萼・張璁とは合わず、しかも自分を押さえるのを憎んで、そりが合わなくなった。
- 給事中の孫應奎が三臣の賢否を見分けるよう請い、桂萼を最も厳しく誹った。帝も既に疑いを抱いており、「宿年の過ちを洗い流し、君臣の終始の義を全うせよ」と命じた。桂萼は大いに恐れ、上疏して弁明したうえで病と称して辞職を願った。帝は「卿は事を行うにあたって公議に従うよう努めよ。そうすれば先日の忠に背かぬ」と答えた。桂萼はいよいよ恐れた。
- 給事中の王準が、桂萼が私人の李夢鶴を御醫に推挙したと弾劾した。詔が吏部に下ると、吏部は「李夢鶴は考選によったもので私はない」と述べたが、帝はなお疑い、太醫院に再審査を命じた。
- 言官は帝の意が既に変わったと知り、給事中の陸粲が桂萼の罪を極論し、あわせて李夢鶴と桂萼の家人・吳從周、序班の桂林が仲立ちして賄賂を贈った事を挙げた。奏が入ると帝は大いに悟り、ただちに桂萼の官を奪って尚書のまま致仕させ、張璁も政から退けた。
- 帝はさらに二人の罪状を列挙して廷臣に詔し、おおむね「自恃自恣で君に負き国に負いた。その所業は明白で衆目の見るところであり、桂萼はとりわけ甚だしい。法によれば刑典に処すべきだが、特に寛大に扱う」と述べた。
- そこで李夢鶴らを法司に下すと、みな自白した。
- ほどなく霍韜が二度上疏して桂萼のために訴え、楊一清が法司と組んで桂萼の贓罪を仕立て上げたと述べたので、楊一清は位を退き、刑部尚書の周倫は南京に移され、郎中・員外郎はみな職を奪われた。法司に錦衣鎮撫の官を加えて再審させたところ、「李夢鶴らが名を借りて私を行ったもので、桂萼とは関わりがない」との結論になった。詔により李夢鶴は林籍を削られ、吳從周は罪に問われ、桂萼は散官に復された。
- このとき張璁は既に召し戻されていた。史館の儒士・蔡圻は帝が必ず桂萼を復すると見て、上疏して桂萼の功を称え召還を請うた。帝はそこで勅を賜り、撫按の官に出立を促させた。桂萼がまだ着かぬうちに、國子生の錢潮らがまた桂萼を急がせるよう請うたので、帝は怒って「大臣の進退に、取るに足らぬ者が口出しするか」と言い、蔡圻ともども役人の取り調べに下した。
- 翌年四月に還朝し、奪われた官をすべて復して、なお機務に参じた。
- 桂萼ははじめ功名に鋭意して事を引き受けるのに勇み、世論を顧みなかったが、急に挫かれてから気勢が萎え、二度と放縦にできなかった。在職数か月、たびたび病を理由に辞職を願い、帝はそのつど手厚い旨で慰留した。
- 十年正月、願いが容れられて帰り、家で没した。太傅を贈られ、諡は文襄である。
- 桂萼が論奏した『帝王心學論』『皇極論』『易復卦』『禮月令』および進呈した『禹貢圖』『輿地圖說』は、いずれも君徳と時政の助けとなるものであった。
- 性は猜疑深く陰険で、自分と異なる者を排するのを好んだ。そのため世論に容れられなかった。はじめ張璁とは大いに親しかったが、ともに政府にいるようになって仲違いするに至った。