出自と歴官
- 顧鼎臣は字を九和といい、崑山の人。𢎞治十八年(1505年)の進士第一で、修撰を授かった。正徳初に再び遷って左諭徳となった。
- 嘉靖初に經筵に直し、范浚の心箴を進講した。敷き陳べることが切実であったので帝は悦び、自ら注釈を作った。鼎臣はとくに眷遇を受け、累進して詹事となった。
- 給事中劉世揚・李仁が鼎臣を汚佞と弾劾すると、帝は劉世揚らを獄に下したが、鼎臣の救いによって軽い譴で済んだ。
- 禮部右侍郎を拝した。帝が長生の術を好み、内殿に齋醮を設けると、鼎臣は步虚詞七章を進め、あわせて壇中で行うべき事を列上した。帝は優詔で褒め答え、ことごとくこれに従った。詞臣が青詞によって主の知遇を結ぶようになったのは、鼎臣が唱えたことに始まる。
- 吏部左侍郎に改められて詹事府を掌り、曾子の後裔に五經博士を授けて三氏の子孫に比するよう請い、従われた。
- 大同で軍が変じたとき、張孚敬は用兵を主張したが、鼎臣は不可と言い、帝は嘉して納れた。
- 嘉靖十三年(1534年)の孟冬の享廟で、鼎臣および侍郎霍韜に神主を捧げるよう命じたが、二人には期功の服があって辞退すべきところであった。そこで上言して、古礼では諸侯は期を絶ち、今の公卿は古の諸侯に当たるから避けずにおきたい、と言った。禮部尚書夏言がその非を極めて詆ったのでやめた。
- まもなく禮部尚書に進み、なお詹事府の事を掌った。京師に長雨が続き四方に水災が多かったとき、鼎臣は飢えを振い盗を弭めるよう請い、可との返答があった。
入閣と晩年
- 嘉靖十七年(1538年)八月、本官のまま文淵閣大學士を兼ねて機務に参ずることになり、まもなく少保・太子太傅を加えられ、武英殿に進んだ。
- 初め李時が首輔、夏言がこれに次ぎ、鼎臣がまたこれに次いだ。李時が卒すると夏言が国を当たって専らなること甚だしく、鼎臣は平素柔媚で為すところなく、位を充たすだけであった。
- 帝が南巡しようとして皇太子を立て、夏言に扈行を命じ、鼎臣に太子を輔けて監国させた。
- 御史蕭祥曜が、吏部侍郎張潮が鼎臣の請託を受けて刑部主事陸崑を吏部に調したと弾劾した。張潮は、兵部主事馬承學が鼎臣と縁があるのを恃んで必ず銓曹を得ると自ら称していたので、臣はゆえに馬承學を抑えて陸崑を用いたのだ、と言った。帝は馬承學を詔獄に下し、鼎臣は問わなかった。
- 嘉靖十九年(1540年)十月、官にあって卒した。年六十八。太保を贈られ、文康と諡された。
- 鼎臣が侍従の官であったとき、東南の賦役が均しさを失っているのを憫れみ、しばしばその弊を陳べた。帝は撫按に飭し、巡撫歐陽鐸が釐り定めた。崑山に城がなかったので当事者に言って城を築かせ、のちに倭の乱が起こったとき崑山は全きを得た。郷人は祠を立ててこれを祀った。