明史卷一百九十三 列傳第八十一 李時

出自と歴官

  • 李時は字を宗易といい、任邱の人。父の李棨は進士で萊州知府。
  • 時は𢎞治十五年(1502年)の進士で庶吉士に改められ、編修を授かった。正徳中に侍讀・右諭徳を歴た。
  • 世宗が位を嗣ぐと講官となり、まもなく侍讀學士に遷った。嘉靖三年(1524年)に禮部右侍郎に抜擢されたが、まもなく喪で帰った。服が除かれると戸部右侍郎となり、また禮部に改められ、まもなく方獻夫に代わって尚書となった。
  • 帝は尊親の礼を定めてから、慨然として前人を狭小とする志を抱き、旧章を裁定して一朝の制作を成そうとした。張孚敬・夏言が事を用い、いずれも更張を好んだので、建てられた諸典礼はいずれも他人が端を発し、時が付会して成したものであった。あるいは廷議が合わないと、おおむね両論を具えて帝の自ら択ぶのを待ち、ついに顕らかに争ったことがなかった。そのため帝はその恭順を愛した。四方が嘉瑞を上ると、そのたびに疏を拝して賀を請い、帝が謙譲すると時は必ず重ねて請うたので、これによっていよいよ時を忠とした。「忠敏安慎」と刻した銀章を賜って密封して事を言わせたが、久しくしてこれを失い罪を請うと、帝は重ねて賜った。

入閣と首輔

  • 嘉靖十年(1531年)七月、四郊が成ると太子太保を加えられた。雷が午門を震わせ、彗星が東井に見えると、時は臣工に修省を勅し、言官に利害と興革を指陳させるよう請うた。帝は建言は科道の専責であるとして、寝めて行わなかった。
  • 光祿寺の厨役王福、錦衣衛千戸陳昇が顯陵を天夀山に遷すよう請うと、時らは不可を力説した。巡檢徐震が安陸に京師を建てるよう奏すると、時らはその制に非ざることを駁し、そこで州を改めて承天府とすることが議された。
  • その秋、桂萼が卒すると、時に文淵閣大學士を兼ねて機務に参ずるよう命じた。当時、張孚敬はすでに罷められ、翟鑾がひとり相であったが、時は後から入りながら宮保の官が尊かったのでかえって鑾の上に居った。二人はいずれも謙遜して齟齬がなかった。
  • 帝が無逸殿に御して時を召し、坐して無逸篇を講じさせ、鑾に豳風七月の詩を講じさせた。武定侯郭勛および九卿・翰林がみな入って侍った。講が終わると帝は退いて豳風亭に御し、宴を賜った。これより数々召見して政務を諮り謀った。
  • 翌年春、張孚敬が還ると内閣の事は独裁に帰し、時は敢えて評議するところがなかった。まもなく方獻夫が入ったが、時とはまた相得た。
  • 彗星が再び出ると、帝は時らを召見して咎を引き修省する意を諭し、ゆったりと語って才の乏しいことに及んだ。時らは退いて、安静に務めること、人才を惜しむこと、刑獄を慎むことの三事を条上し、かなり大礼・大獄で廃斥された諸臣にも及んだ。帝は優詔で褒め答えたが、ついに用いることはできなかった。
  • 給事中魏良弼・御史馮恩が前後して吏部尚書汪鋐を弾劾して帝の怒りに触れたときは、時はいずれも論救した。
  • 嘉靖十二年(1533年)、張孚敬が再び入り、鑾が喪で去り、方獻夫が致仕した。時は張孚敬の後に随って拱手し唯々と応ずるだけであったので、張孚敬はこれに安んじた。
  • 張孚敬が政を謝し、費宏が再び入ってまもなく卒すると、時はついにひとり相となった。時は平素寛平であったが、ここに至っていよいよ安静をもって鎮めた。帝もまたつねに便殿に召し対し、膝を接して諮詢した。時は大きな匡救はなかったが、議論はつねに忠厚に本づいたので、廷論はみな時を賢とした。
  • 客星が天棓のかたわらに見え、帝が主るところを問うと、時は「事応の説は漢の京房に起こったもので、必ずしもみな合うものではありません。ただ人君が徳を修めてこれを弭めるにあります」と答えた。帝は善しとした。
  • 蹕に扈って陵に謁し、沙河を過ぎたとき、帝は居民の蕭索なのを見て愴然として「七陵がここにある。守護を加えるべきだ」と言った。時は「昔、邱濬は建議して、京師には四輔を設け、臨清を南、昌平を北、薊州・保定を東西とし、各々兵一、二万を屯すべきだと言いました。今もし昌平に總兵一人を増やせば、南は京師を衛り、北は陵寝を護れます」と答えた。帝はそこで廷臣に下して勘議させ、沙河に鞏華城を築いて戍を置いた。
  • しばしば少傅・太子太師・吏部尚書・華葢殿大學士を加えられた。夏言が入って輔けると、時は抗わず事ごとに推し譲ったので、夏言もこれに安んじた。帝が時を待つことは張孚敬・夏言に及ばなかったが、責め辱めることは少なく、始終替わることがなかった。これは張孚敬・夏言にも望めぬことであった。
  • 嘉靖十七年(1538年)十二月、官にあって卒した。太傅を贈られ、文康と諡された。