明史卷一百九十三 列傳第八十一 費宏
費宏(字は子充)は鉛山の人。弱冠で成化二十三年の進士第一に及第し、東宮で直講、武宗朝に禮部尚書を経て入閣、戸部尚書に進んだ。倖臣の錢寧の贈り物を斥け、寧王宸濠の護衛回復にも反対したため両者に憎まれ、御史の弾劾を口実に致仕に追い込まれた。帰郷後は宸濠の使嗾する李鎮らに一族の家と先塋を襲われている。宸濠の敗後、世宗の即位で少保として輔政に召され、楊廷和らの退場後は首輔となった。大礼の議では強諫を避けたので世宗に善しとされたが、席書・張璁・桂萼と衝突し、王邦奇の誣告を機に嘉靖六年二月に致仕。嘉靖十四年、桂萼の死と張璁の退場を承けて三たび入閣し、「舊輔元臣」の銀章を賜って寛和の政を敷いたが、まもなく六十八で卒した。太保を贈られ文憲と諡された。
年表(7件)
- 成化二十三年1487年弱冠で進士第一に及第し修撰を授かる
- 正徳二年1507年禮部右侍郎を拝し、まもなく左に転じる
- 正徳五年1510年禮部尚書に進み、政に勤め諫を納れるよう武宗に請う
- 1511年冬十二月、文淵閣大學士を兼ねて機務に参預する
- 嘉靖六年1527年二月、王邦奇の誣告を受けて致仕する
- 嘉靖十四年1535年四月に行人を遣わされて起用され、七月に京師へ入る
- 成化十一年1475年世父の費瑄が進士に及第する
篇首の立伝者一覧
- 費宏(弟の費宩、従子の費懋中、子の費懋賢、世父の費瑄を附伝とする)
- 翟鑾
- 李時
- 顧鼎臣
- 嚴訥(袁煒を附伝とする)
- 李春芳(孫の李思誠らを附伝とする)
- 陳以勤
- 趙貞吉(殷士儋を附伝とする)
- 髙儀
出自と武宗朝の歴官
- 費宏は字を子充といい、鉛山の人。弱冠で成化二十三年(1487年)の進士第一に及第し、修撰を授かった。
- 𢎞治中に左贊善に遷って東宮で直講し、左諭徳に進んだ。
- 武宗が立つと太常少卿に抜擢され、侍講讀を兼ねた。孝宗實錄の修纂に参与し、日講官を務めた。
- 正徳二年(1507年)に禮部右侍郎を拝し、まもなく左に転じ、五年(1510年)に尚書に進んだ。帝が逸楽に耽って早朝も日講も廃されていたので、宏は政に勤め学に務め諫を納れるよう請うた。聞き置くとの返答があった。
- 魯府鄒平王の子の當□が父の爵を襲ぐべきところ、弟の當涼に奪われてすでに数年になっていた。宏は當□の奏弁によって法に拠りこれを正した。當涼は怒って宏が賄賂を受けたと誣告したが、宏は動じなかった。
- 翌年冬十二月(1511年)、文淵閣大學士を兼ねて機務に参預するよう命じられ、まもなく太子太保・武英殿大學士を加えられ、戸部尚書に進んだ。
錢寧・宸濠との対立
- 倖臣の錢寧は陰に宸濠に党しており、宏と歓を交えようとして綵幣や珍玩を贈ったが、宏はこれを斥け返した。錢寧は恥じ、かつ憤った。
- 宸濠が護衛と屯田を復すことを謀り、白金巨万を輦んで朝廷の貴顕に遍く賂した。錢寧と兵部尚書陸完がこれを主った。宏の従弟で編修の費寀は、その妻が宸濠の妻の兄弟であったのでこれを知り、宏に告げた。
- 宏が入朝すると、陸完が迎えて「寧王の求める護衛は復してよいか」と言った。宏は「当日これを革めたのが何のためか分からない」と言った。陸完が「今は与えぬわけにいかぬだろう」と言うと、宏は厳しく斥けた。中官が奏を持って閣に至ったときも、宏は与えるべきでないと極言したが、詔はついにこれを与えた。
- こうして宸濠と錢寧は結んで宏を憤った。錢寧はしばしば宏の落ち度を偵ったが得られず、御史余珊がかつて費寀を翰林に留めるべきでないと弾劾したのを、そのまま宏の罪として指弾させ、中旨で状を陳べるよう責めた。宏は休を乞い、費寀ともども致仕するよう命じられた。錢寧が騎を遣わして宏の後を窺わせ、臨清に至ってその舟を焼き、資装はことごとく焼失した。
- 宏は帰ってから門を杜ざして客を謝した。宸濠がまた通交を求めたが宏は謝絶したので、いよいよ怒った。折しも宏の族人が邑の奸人李鎮らと訟えていたので、宸濠は密かに李鎮に宏を賊わせた。李鎮らは険阻に拠って乱を起こし、衆を率いて費氏を攻め、宏を索めたが得られず、訟えの相手を捕らえて支解し、宏の先人の塚を発いてその家を毀ち、遠近を劫掠した。衆は三千人に及んだ。宏は使いを馳せて朝に訴え、巡撫孫燧に下して状を按じさせ、はじめて兵を遣わして勦滅した。
- 宸濠が敗れると、言う者は争って宏を召すよう請うた。
世宗朝の首輔
- 世宗が即位すると行人を遣わして家において起こし、少保を加えて入って輔政させた。
- 宏は持重で大体を識り、国家の故事に明るく習っていた。楊廷和・蔣冕・毛紀と心を同じくして協賛し、しばしば帝に武宗の弊政を革めるよう勧めた。
- 大礼の議で諸臣が力を尽くして帝と争い、帝が堪えられなくなったとき、宏はやや帝の意を揣り知り、ただ公の疏に署名するだけで、特に諫めたことはなかった。そのため帝は内心これを善しとした。
- 楊廷和らが位を去ると宏は首輔となり、少師兼太子太師・吏部尚書・謹身殿大學士を加えられ、委任は至れり尽くせりであった。
- 戸部が正徳時の未納の賦を督促することを議したとき、宏は石珤・賈詠とともに正徳十年以後で断ち切るよう請い、従われた。
- 帝が四方の災異によって群臣に修省を勅したとき、宏らは言った。陛下は用度に節がなく工役は休まない。畿内の土地は半ば荘田となり、内庫の収納は要求が倍を越えている。太倉には三年の蓄えがないのに冗食は日に増え、京營には十万の兵がないのに工役に赴かせることが已まない。直臣は罪を得ても宥されず、言官は職を挙げてかえって詰責される。律で行うべき者は数度の讞を経ても誅されず、罪の弁ずべきところのない者はにわかに旨を伝えて免れる。和を干し怨みを召くのは一端ではない、と。帝は咎を引いて褒め答えたが、用いることはできなかった。
- 大同で兵変が起こり、張璁が討伐を請うたとき、宏は言った。討って勝てば玉石ともに焚かれ、勝てなければ彼らは城に拠って守り、威重を損なうことが多い。変を観てゆるやかに図るに越したことはない、と。事は果たしてまもなく定まった。
張璁・桂萼との確執と致仕
- 宏は人となり和易で後進を推挙することを好んだ。大礼については強く諫めることができなかったが、また附き離れすることもなかった。
- このとき席書・張璁・桂蕚が事を用いていた。席書の弟の檢討席春はもと他曹から改め用いられていたが、武宗實錄が成ったとき、宏は僉事に出すよう議した。席書はこれによって宏を恨んだ。張璁・桂萼は郎署から翰林に入り、たちまち詹事に至ったので朝廷こぞってその人柄を憎み、宏はそのたびに裁き抑えた。張璁・桂萼もまた大いに怨んだ。
- 帝はかつて平臺に御して特に御製の七言一章を賜り、倡和詩集を輯めるよう命じ、その銜を「内閣掌參機務輔導首臣」と署した。その尊礼されようは、これ以前にないことであった。張璁・桂萼はいよいよ宏の寵を害った。桂萼は、詩文は小技であって聖心を労するに足りず、しかも宏に寵霊を憑らせて朝士を凌ぎ圧させるものだと言った。帝は置いて省みなかった。
- 桂萼はそこで張璁とともに帝の前で宏を毀り、宏は郎中陳九川が盗んだ天方の貢玉を納れ、尚書鄧璋の賄賂を受けて起用を謀ったと言い、あわせて郷居中の事にも及んだ。
- 宏は上書して休を乞い、およそ次のように言った。桂萼・張璁が私怨をもって臣を挟むことはたびたびである。經筵講官に与らなければ怨み、獻皇帝實錄の修纂に与らなければ怨み、両京の郷試考官にならなければ怨み、教習にならなければまた怨む。桂萼・張璁は内閣の事が臣の操縦に属すると疑うが、臣下は物望を採り上は聖裁を稟けるのであって、専擅できるものではないことを知らないのである。桂萼・張璁は日々袂を攘げ腕を扼して臣の位を覬っている。臣がどうして小人と齮齕し合えようか。骸骨を賜りたい、と。允されなかった。
- 張璁が兵部に居ったとき、宏は新寧伯譚綸を奮武營の掌にしようとした。張璁はそこで宏が府部を劫制していると弾劾した。ほどなく宏の子費懋良が罪に坐して吏に下されたのに乗じて攻めることいよいよ力めた。あわせて前後の弾劾の疏を録して上り、聴かれないとなると力めて罷免を求め、宏を詆ることはとりわけ切であった。章はしばしば上り、宏もまた疏を連ねて休を乞うたが、帝はそのたびに優詔を下して慰留し、しかもついに張璁・桂蕚を譴めることはなかった。
- そこで奸人王邦奇が張璁・桂萼の指図を承けて上書し、故大學士楊廷和らを誣い、あわせて宏をも誣告した。宏はついに致仕して去った。嘉靖六年(1527年)二月のことである。十月に張璁は尚書大學士として内閣に入直し、一年を隔てて桂萼も入った。
再入閣と卒去
- 嘉靖十四年(1535年)、桂萼はすでに先に死に、張璁もまた位を去った。帝ははじめて宏を追念し、四月に再び行人を遣わして家において故の官に起こした。
- 七月に京師に至ると、中使を遣わして上尊・御饌をもって労い、面と向かって「卿と別れて久しい。卿は健やかで恙ないか。心を尽くして輔導し朕の意に称うようにせよ」と諭した。宏は頓首して謝した。
- これより眷遇はいよいよ厚くなった。李時とともに無逸殿に召し入れられ、殿廬を周覧し、ゆったりと笑い語らって時を移してから退出した。「舊輔元臣」と刻した銀章を賜り、しばしば諮問された。宏もまた誠を竭くして隠すところがなかった。張璁・桂萼の操切のあとを承けて寛和に易えたので、朝士はみなこれを慕い楽しんだ。
- まもなく卒した。年六十八。帝は嗟き悼み、□恤は等を加えて太保を贈り、文憲と諡した。
- 宏は三たび内閣に入り、両朝を佐けること十年近く、途中で讒構に遭ったが、ついに功名をもって終わった。
- 少保として入ったとき、弟の費寀は贊善、従子の費懋中は進士及第で編修、宏の長子の費懋賢はちょうど庶吉士に改められており、父子兄弟が禁近に並び列した。費寀は官が少保・禮部尚書に至り、文通と諡された。費懋中は湖廣提學副使で終わり、費懋賢は兵部郎中を歴た。
費瑄――附伝
- 宏の世父の費瑄は成化十一年(1475年)の進士。𢎞治のとき兵部員外郎であった。
- 貴州巡撫謝㫤・總兵官吳經らが、爛土の苗が反して僭かに王を称したとして大軍を発して征討することを乞うた。兵部尚書馬文升の請いによって、瑄は御史鄧庠とともに往って按じ、苗に反した状がないことを明らかにして撫定した。あわせて謝㫤・吳經および鎮守中官張成の罪を弾劾した。貴州參議に遷って終わった。