明史卷一百九十二 列傳第八十 郭楠

出自と諸臣の救済を請う

  • 郭楠は字を世重といい、晉江の人。正徳九年(1514年)の進士で、浦江知縣を授かり、考課が最であったので入って御史となった。
  • 世宗が即位すると、直臣の舒芬・王思・黄鞏・張衍瑞らを召し還すよう請い、従われた。
  • 嘉靖元年(1522年)、両廣の餉を核べ、總兵官撫寧侯朱麟の貪懦を弾劾し、戒飭する詔が下った。まもなく章を上って、退朝の暇に大臣を延見すること祖宗の故事の如くされたいと請い、あわせて主事陳嘉言が中官に忤らったからといって逮繋すべきでないと言った。帝は怒ってその俸を奪った。
  • 諸臣が闕に伏して大礼を争いみな罪を得たとき、楠はちょうど雲南を巡按していたが、疏を馳せて言った。人臣が君に事えるに、意に阿る者が必ずしも忠ではなく、顔を犯す者が必ずしも悖るのではない。今、群臣が闕に伏して呼号し、あるいは搒掠されて身を殞とし、あるいは間関して謫戍された。聖明の朝にあって忠良がこのように罪を得るとは思わなかった。生者の職を復し死者の家を恤まれれば、人心を収め納れ君臣の義を全うできる、と。
  • 帝は大いに怒り、緹騎を遣わして逮え治めさせた。言官が論救したがいずれも納れられなかった。到着すると鎮撫の獄に下されて拷問され、さらに廷杖されて籍を削られた。

俞敬・李繼先・王懋――附伝

  • これより先、諸人がすでに死んでも廷臣は敢えて上聞する者がなかった。
  • 後府經歴の俞敬が奏して言った。學士豐熙らはみな宸厳を冒し触れたとして獄に繋がれ拷訊された。諸臣の跡は狂悖に見えても心は実に忠誠である。今聞くに、給事の裴紹宗・編修の王相・主事の余禎らはみなすでに死に、豐熙ら獄中にある者もまた死に瀕している。呻吟して床に臥し、傷が重くて起てぬ者はまた幾人あるか分からない。ひそかに思うに、獻皇帝の神主はすでに迎え奉って廟に入っている。まさに過ちを赦し罪を宥して大孝を天下に彰らかにされるべきときである。雷霆の威を霽らして雨露の沢を施し、すでに死んだ者にはその後を恤み、死に瀕した者にはその身を宥されたい。人臣が二度と言を諱まぬようになれば宗社の幸いである、と。
  • 通政司經歴の李繼先もまた上言した。陛下が尊号を追崇されるのは仁人の至情であって、誠に已むことができない。群臣が一時天威を冒し触れて重く罪譴を得、死んだ者が十余人に及び、大臣は紛々と位を去り、小臣は苟も黙って自ら容れている。今日、大同が変を告げているのに、一疏を進め一策を画す者すらいない。大小の臣の志が奮わず気が揚がらないことがこれで分かる。すでに死んだ者を録して恤み、謫戍された者を赦して還し、国を去った諸臣を追い復し、在位の者には委任して寛く赦し、各々辺計を陳べさせられたい。臣は愚かながら惓々の情に堪えない、と。帝はいずれも省みなかった。
  • 翌年三月、御史王懋が、廷臣で議礼のために杖下に死んだ者は十七人おり、その父母妻子の顛沛は憫れむべきである。優卹を賜り官を贈り廕を録されたい、と言った。帝は大いに怒り、王懋を四川高縣典史に謫した。数日を越えて楠の疏が至り、帝はいよいよ怒って逮え治めさせ籍を削ったのである。
  • 嘉靖六年(1527年)春、災変によって修省し、吏部の言に従って楠に一官を量り与え、吉水教諭を得た。南寧知府で終わった。

史論

  • 贊に言う。大礼の争いで群臣が門を揺すって慟哭するに至ったのは、過激でしかも愚直であった。しかし二度廷杖を受け、あるいは死に、あるいは斥けられて終身廃錮されたのは、なんと惨いことか。楊愼は博物洽聞で文学において優れていた。王思・張翀の諸人は、あるいは武宗の朝に諫を納れ、あるいは世宗の初政に抗論し、侃々鑿々として官の下に節に死んだ。ただ意気を奮い発して一時に効を立てただけの者ではない。