出自と大礼の議
- 汪俊は字を抑之といい、弋陽の人。父の汪鳯は進士で貴州參政。俊は𢎞治六年(1493年)の会試に第一で及第し、庶吉士を授かって編修に進んだ。
- 正徳中に孝宗實錄の修纂に加わったが、劉瑾・焦芳に附かなかったため南京工部員外即に移された。劉瑾・焦芳が敗れると召されて原官に復し、累進して侍讀學士となり、禮部右侍即に抜擢された。嘉靖元年(1522年)、吏部右侍即に転じた。
- 当時、興獻王の尊号が議されており、尚書喬宇・毛澄らとともに力争した。毛澄が病で去り、代わりの羅欽順が着任しなかったので、俊が禮部尚書とされた。このときすでに獻王には帝号が加えられていた。主事桂萼がさらに皇考と称するよう請い、章は廷議に下された。
- 嘉靖三年(1524年)正月、俊は廷臣七十三人を集めて議を上った。
- その趣旨は次の通り。祖訓の「兄終われば弟が及ぶ」は同産の兄弟を指す。今、陛下は武宗の親弟であるから、当然孝宗を考とすべきことは明らかである。誰が人の後となって武宗の統を滅ぼすなどと言おうか。儀禮傳に「人の後となる者は誰の後となるのか。大宗の後となるのである」とある。漢の宣帝は民間から起こってなお孝昭を嗣ぎ、光武は中興してなお孝元を考とした。魏の明帝の詔に「皇后に子がなければ支子を択び建てて大宗を継がせる」とある。誰が入継の主と人の後となる者とが異なるなどと言おうか。
- 宋の范純仁は「英宗は親しく詔を受けて子となったのであって、入継とは同じでない」と言った。これは恩義がとりわけ篤いのだから、なおさら私親を顧みるべきでないという意味であって、生前に子となった者だけが人の後となるのであり、身後に入継した者は人の後とならぬという意味ではない。
- 桂萼は「孝宗にはすでに武宗という子がある。どうしてさらに後嗣を立てられようか」と言うが、臣らは、陛下は武宗の後を継がれた上で孝宗を考とされるのであって、孝宗のために後嗣を立てるのではないと考える。また「武宗は神器を全うして陛下に授けた。どうしてその統を継がぬのに忍びられようか」と言うが、臣らは、陛下はすでに武宗を皇兄と称しておられる以上、孝宗を伯と改称してはじめてその統を継ぐことになるわけではないと考える。
- また「礼官の執るところは前宋の濮議に過ぎない」と言うが、臣ら愚昧の執るところは実にこれを出ない。宋の程頤の議に「正統に専ら意を用いるべきではあるが、どうして私恩をすべて絶てようか。ゆえに継ぐところは大義を主とし、生むところは至情に存する。名称に至っては統緒に関わるところであり、もし区別がなければ大倫を乱す」とある。まさに今日のために発せられた言葉である、と。
- あわせて諸章奏を集めたところ、進士張璁・主事霍韜・給事中熊浹が桂萼と議を同じくするだけで、その他八十余疏・二百五十余人はみな臣らの議と同じであった、と述べた。
- 議が上ると留められ、特旨で桂萼・張璁・席書を南京から召した。十五日を越えてようやく下し、「朕は宗廟を奉承し、正統の大義に違うことは敢えてしない。ただ本生の至情もまた兼ね尽くすべきである。あらためて集議して上聞せよ」と諭した。
- 俊はやむを得ず群臣を集め、「皇」の字を加えて徽称を全うするよう請うた。議が上るとまた十余日留められ、三月朔に至ってようやく禮官に詔して、興獻帝を本生皇考恭穆獻皇帝、興國太后を本生母章聖皇太后と加称し、日を択んで郊廟に祭告して天下に詔を頒つよう命じた。そのうえ別に、奉先殿の側に室を建てて獻皇を恭しく祀るよう諭した。
- 俊らはまた争って言った。陛下は入って大宗を奉じておられる以上、小宗を祭ることはできない。それは小宗が大宗を祭れないのと同じである。かつて興獻帝は安陸に藩を奉じており憲宗を祭ることができなかった。今、陛下は入って大統を継がれた以上、興獻帝を祭ることができない。これはいずれも礼をもって情を抑えるものである。しかし興獻帝は夀安皇太后を藩邸に迎え養うことができなかったのに、陛下は興國太后を大内に迎えて天下の養を受けさせ、興獻帝を天子の礼楽で尊び祀っておられる。人の子の情はすでに自ら尽くされている。今、聖心が窮まりないとはいえ、臣らはどうして順わずにいられよう。ただ正統に嫌いがないようにしてこそ礼に合う、と。
- 帝は「朕はただ奉先殿の側に別に一室を建てて追慕の情を伸べたいだけである。藩邸に迎え養うことは祖宗の朝に例がない。どうして飾って言い訳とするのか。状を陳べさせよ」と言った。
- 俊は疏を具えて罪を引いたが、厳旨で厳しく責められ、廟を立てよとの催促はいよいよ急となった。俊らはそこで議を上って、大内に廟を立てるのは正統に触れる。臣は実に愚昧であって詔を奉ずることができない、と言った。
- 帝は納れず、廷臣を集めて大いに議させた。俊らはまた議を上って言った。先朝の奉慈別殿は、孝宗皇帝が孝穆皇太后を祔葬し終えたばかりで神主に薦享の場所がなかったために設けたものである。当時議した者はみな周制で特に姜嫄を祀ることに拠って言った。本生のために大内に廟を立てることは古より聞かない。ただ漢の哀帝が定陶恭王のために京師に廟を立てたが、師丹は不可としたのに哀帝は聴かず、ついに後世の譏りを遺した。陛下には堯舜となる資質がある。臣らは衰世の事をもって導くことはできない。安陸に獻帝の百世不遷の廟を特に建て、他日興王の封を襲ぐ子孫に世々献饗させ、陛下は歳時に官を遣わし節を持たせて奉祀させれば、それでも陛下の窮まりない至情を伸べるに足りる、と。
- 帝はなお前の旨に遵って再議するよう命じた。俊はそこで抗疏して休を乞い、重ねて請うことますます強かった。帝は怒り、放縦傲慢だと責めてその去就を允し、席書を召したが到着しないので吳一鵬に事を署させた。
- 明倫大典が成ると俊は職を落とされ、家で卒した。隆慶初に少保を贈られ、文莊と諡された。
- 俊は行いが修潔で、朝に立って光明端介であった。学は洛閩を宗とし、王守仁と交わりは好かったがその説には同じなかった。学者は石潭先生と称した。
汪偉――附伝
- 弟の汪偉は字を器之といい、庶吉士から檢討を授かった。汪俊とともに劉瑾に忤らって南京禮部主事に移され、劉瑾が誅されると故官に復した。しばしば遷って南京國子祭酒となった。
- 武宗が巡幸で至ったとき、諸生を率いて学に幸するよう請うたが従われなかった。江彬が旨を偽って玉硯を取ろうとすると、偉は「秀才であった頃の古い硯なら持って行ってよい」と言った。
- 俊が官を罷められた年、偉もまた吏部右侍郎に至り、廷臣とともに何度も大礼を争い、また闕に伏して力争した。席書・張璁らの議が行われるようになってもなお前説を持して変えなかった。左侍即に転じたが、陳洸に弾劾されて罷められ、家で卒した。