明史卷一百八十九 列傳第七十七 陸震

泰和知縣としての治績

  • 陸震は字を汝亨といい、蘭谿の人。同県の章懋に学び、学行で名を知られた。正徳三年(1508年)の進士で、泰和知縣に任じられた。
  • 当時、劉瑾が政を専らにし、滞納した塩課を県民に償わせ、連座した者が数百人に及んだが、陸震は力を尽くして上官に説明し免れさせた。
  • 鎮守中官が毎年徴していた貢納の細布は、その額を減らさせた。学舎を増築して諸生を住まわせ、淫祠を毀って忠節の者を祀った。過重な税糧が民を苦しめていたので賦籍を調べ、名義を偽って隠していた分一萬五千石を摘発して補塡した。県の左に倉を建てて穀を蓄え賑済に備えた。自ら村々を回って農桑を勧め、保伍の法を立てて民に盗賊への備えをさせた。城壁を甎で築き、七里の外にさらに土城を築いて十里を巡らせた。
  • 当時、狼兵を発して賊を討たせており、行く先々で民を騒がせていたので、陸震は總督に言って従わせないようにし、舟を岸につけて官が糧食を用意し順に配給させたので、兵の行軍は粛然としていた。永豐・新淦の賊を捕らえる指揮に当たり、功で賞を受けた。巡撫・巡按が交々推薦し、召されて兵部主事となった。泰和の人は生祠を立てた。

北巡の諫止と獄死

  • 兵部にあって諸司の章奏を掌り、宦官と衝突した。紫荊の諸関の巡視に改まった。また都御史の彭澤と副使の胡世寧に罪がないと論じて、尚書の王瓊・陸完に逆らった。
  • 孝貞皇后が崩じ、武宗が宣府から至った。喪を発して数日で再び北へ出ようとしたので、陸震は疏を上げて述べた。「先ごろ天は憐れまず、大いなる悲しみを降しました。車駕は狩りに出ておられ、人々は惶々としておりましたが、陛下が単騎で雪を衝いて還宮されると、百官有司で感じ入らぬ者はなく、陛下が以前は覆われ今は明らかになられたと思いました。ところが梓宮がまだ殯にあるのに、にわかに巡遊を計られる。臣は陛下の御心にも必ず憂えて安んじないものがあると存じます。しかも陛下は即位して十二年になります。十は干の終わり、十二は支の終わりです。気運の一巡りに当たり、まさに徳を修めて新たにすべき時なのに、宣府を営んで住まいとし、騎射を恣にして楽しみとされている。これが臣の深く恐れるところです。
  • 古の人君にも車馬や遊猟の好みはあったでしょう。しかし外を主とし家を客とし、天下の大器と賞罰の大柄を人に付して、まるで意に介さないというのは、古今に絶えてないことです。伏して望むらくは、喪の制を最後まで努められ、遊興を深く戒められたい」。返答はなかった。
  • 武選員外郎に進み、やがて黄鞏とともに南巡を諫めて詔獄に下された。獄中で黄鞏と『易』の九卦を講じ、憂患の道を明らかにした。同じく繋がれた者はおおむね後事を処分したが、陸震だけは一言も言わなかった。
  • 杖を受けて傷が重くなると、子らに書を送って「私は死ぬが、お前たちは忠孝に努めよ。私は筆こそ乱れても神は乱れていない」と言い、そのまま卒した。世宗が立って太常少卿を贈られ、祭を賜った。
  • 陸震らが獄に繋がれたとき、江彬はどうしても死に至らせようとして飲食を絶った。陸震の末子の體仁は十五歳であったが、服を変えて他の囚人の親族になりすまし、食を差し入れた。のち子一人を官に録用する詔があったとき、兄たちは體仁に譲り、漳州通判となって政声があった。孫の可教は進士から南京禮部侍郎を歴任した。