范輅
- 范輅は字を以載といい、桂陽の人。正徳六年(1511年)の進士で、行人を授けられ、南京御史に任じられた。
- 武宗に久しく子がなかったので、范輅は同官とともに宗室の賢い者を選んで宮中で養い、宋の仁宗を先例とするよう請うたが、返答はなかった。前後して中官の黎安・劉瑯および衛官の簡文・王忠の罪を弾劾し、また馬姫がすでに身ごもっていて入宮すべきでないと論じた。言葉はいずれも切実で率直であった。
- ほどなく江西で軍籍を整理するよう命じられた。寧王宸濠が諸司に朝服で謁見するよう命じたが、范輅は従わず、奏して「髙帝の定めた制では、王府の属僚は自らを官と称し、のちに臣と称するようになりましたが、その他の文武および使いに出る京官はみな官と称し、朝廷の使者と会うときは便服でした。いま天下の王府の儀礼の定めは一様ではありません。臣が思うに、尊きものは二つないのですから、およそ臣と称さない者はみな朝服を着るべきではなく、そうして君臣の大きな境目を厳しくすべきです」と述べた。章は禮官の議に下され、宸濠は疏を急送して争ったが、廷議は范輅の言のとおりにするよう請うた。
- 宸濠の伶人である秦榮が身分を越えて奢ったので、范輅は弾劾して処断した。また鎮守太監の畢真の貪虐十五事を弾劾したが、疏は留められて下されなかった。畢真は他の事をあげつらって誣告し、そこで詔獄に逮えられた。ちょうど帝が巡幸中だったので一年余りも繋がれ、正徳十四年(1519年)四月にようやく龍州宣撫司經歴に左遷された。
- まもなく宸濠と畢真が反逆を謀って誅されると、御史の謝源・伍希儒らが章を交わして范輅を推薦したが、召される前に世宗が立ち、もとの官に復した。福建僉事に遷り、江西副使に転じて致仕し帰った。また胡世寧の推薦で密雲兵備副使に起用され、礦賊を討って功があり、江西・福建の左右布政使を歴任し、官にあって卒した。