周南
- 周南は字を文化といい、縉雲の人。成化十四年(1478年)の進士で、六合知縣に任じられ、御史に抜擢されて畿輔を巡按した。𢎞治の初め、再び廣東を巡按し、總兵官の桞景を弾劾した。江西右布政使を歴任し、右副都御史に抜擢されて大同を巡撫した。
- 武宗が立ったばかりのころ、寇が宣府に入ったが、參将の陳雄らが迎え撃って破った。功を録して周南は俸一階を増された。母の喪で帰った。
- 正徳三年(1508年)、劉瑾が政を専らにし、大同の倉の粟に湿り腐ったものがあったとして、周南および督糧郎中の孫祿を逮えて詔獄に下し、械で大同に送って倍額の弁償を負わせた。たまたま赦に遇い、大同總兵官の葉椿らが請うて倍額を免じられ、納め終えて釈放され民とされた。
- 劉瑾が誅されると、もとの官で宣府を巡撫するよう命じられたが赴かず、病と称して帰った。翌年、起用されて南贛の軍務を督した。南贛巡撫の設置は周南に始まる。
- 汀州の大㡌山の賊である張時旺・黄鏞・劉隆・李四仔らが衆を集めて王を称し、城邑を攻めて掠め、江西・廣東の境まで広がって、数年も静まらなかった。官軍が討つたびに敗れ、推官の莫仲昭、知縣の蔣璣、指揮の揚澤らが捕らえられ、賊の勢いはますます盛んになった。
- 周南は諸道の兵を集めて龍牙で撃ち、張時旺を捕らえた。義民の林富は別に鐡坑で黄鏞を撃ち斬った。その他の諸砦は指揮の孫堂らが破り、副使の楊璋、僉事の淩相らもまた劉隆・李四仔を撃って捕らえた。前後で五千人を斬獲し、莫仲昭らは逃れ帰ることができた。勝報が届き、敕を賜って労をねぎらわれた。
- そこで周南は軍を移し、總督の陳金と合して姚源の諸賊を平らげ、境内はようやく安んじた。
- 正徳九年(1514年)春、右都御史に進んで両廣の軍務を總督したが、一年余りして帰郷を乞い、卒した。太子少保を贈られた。
- 孫禄は棲霞の人。𢎞治九年(1496年)の進士で、户部主事から郎中を歴任した。劉瑾が敗れるともとの官に起用され、累進して應天府尹に至った。