明史卷一百八十六 列傳第七十四 王璟

王璟

  • 王璟は字を廷采といい、沂の人。成化八年(1472年)の進士で、登封知縣となり、両京の御史を歴任した。
  • 𢎞治十四年(1501年)、南京鴻臚卿から右僉都御史に拝され、両浙の塩政を管理した。浙江で飢饉を救うとき、荒政十事を奏行して多くの人を救った。
  • 𢎞治十七年(1504年)冬、保定を巡撫した。武宗が立つと、太監の夏綬が真定の諸府で毎年の葦場の税を加増するよう乞い、少監の傳琢が静海・永清・隆平の諸県の田を実測して調べるよう請い、太監の張峻が寜晉の小河を往来する客貨に税をかけようとして、詔でいずれも許された。さらに莊田の件で緹騎を遣わして民の魯堂ら二百余人を逮えたので、畿南は騒然となった。王璟は疏を上げて切に諫め、尚書の韓文らが力を尽くして支持したので、莊を管理する内臣はいくらか召し還された。
  • 正徳元年(1506年)四月、病と称して致仕し、駅伝で帰るよう命じられた。正徳三年(1508年)に連座して官を奪われ閑住となった。
  • 正徳六年(1511年)、山西の巡撫に起用された。火槍一萬余を作り、槍に矢六本を蔵し、いずれに毒薬を塗って寇を防いだので、寇は西へ来ることができなかった。
  • 累進して右都御史となり、さらに左都御史に遷り、張綸を右都御史として代わらせた。のち陳金が太子太保・左都御史として院に入り、位が王璟の上になったので、人は王璟を「中都御史」と呼んだ。
  • 当時、小人が権を握り大臣は皆なびいたが、王璟は独りもとの操を守り、再び太子太保に進んだ。世宗が立つと致仕し、卒して少保を贈られ、諡は恭靖。
  • はじめ王璟が保定の巡撫から帰ったのち、兵科給事中の高淓が滄州・鹽山の牧地を調べ、六十一人および王璟と前巡撫都御史の高銓を弾劾した。高銓は高淓の父である。詔で「職を去った者は問うな」とされ、王璟と高銓はともに免れた。
  • 高銓は江都の人で、累進して南京户部尚書となった。正徳二年(1507年)に廷推で左都御史となったが、劉瑾が致仕を強い、ほどなく事に坐して逮えられ獄に下された。さらに隆平侯家の襲爵の件に坐して除名され、米五百石を罰せられた。のち劉瑾はますます締めつけを厳しくし、使者を遣わして調査させるたびに苛烈を極めたので、高淓は劉瑾の意を承けて父の高銓まで弾劾の中に加えた。高淓はのち光禄少卿に至ったが、父を弾劾したことで人に相手にされなかった。劉瑾が誅されて高銓は官に復し、致仕して卒し、太子少保を贈られた。