両廣総督としての討伐
- 潘蕃は字を廷芳といい、崇徳の人。はじめ鍾姓を冒していたが、顕達してから本姓に復した。成化二年(1466年)に進士に挙げられ、刑部主事を授けられて郎中を歴任した。
- 雲南の鎮守中官である錢能が巡撫の王恕に弾劾されたとき、詔で潘蕃が調べ、ことごとくその実状を得た。
- 安慶知府として出、鄖陽に改まった。当時、府の役所が置かれたばかりで、陝西・洛陽の流民が集まっていたが、潘蕃が心を尽くして撫し、皆が定着した。累進して山東・湖廣の左右布政使となった。
- 𢎞治九年(1496年)、右副都御史として四川を巡撫し、松潘の軍務を提督した。威信を示したので蛮人は畏れ服し、単身の車で松・茂の地を行っても侵す者はなかった。
- 南京兵部右侍郎に遷り、そのまま刑部に改まった。𢎞治十四年(1501年)、右都御史に進んで両廣を總督した。帳下の兵はもと一萬人を下らなかったが、潘蕃は削って使い走りに足るだけとした。
- 黎の賊である符南蛇が海南で乱を起こし数萬を集めたが、潘蕃は副使の胡富に狼兵・土兵を動員させて討ち斬らせ、賊の巣一千二百余か所を平らげた。功を論じて左都御史に進んだ。
- さらに歸善の凶賊である古三仔・唐大鬂らを平らげた。思恩知府の岑濬と田州知府の岑猛とが仇として殺し合い、田州が陥落した。岑猛は窮して援けを乞うた。潘蕃が岑濬に兵を収めるよう諭したが従わないので、鎮守太監の韋經・總兵官の伏羌伯毛鋭とともに兵十余萬を集め、六隊に分けて討った。岑濬は死に、首は軍門に送られ、斬首は四千七百、その地はすっかり平定された。軍を返して南海縣の豐湖の賊である榻元祖を討ち平らげた。勝報が届き、璽書で労をねぎらわれた。
- 潘蕃は、思恩には流官を置くべきこと、岑猛は兵を構えて地を失ったのだから同知に降して旧土に還って守らせるべきことを奏した。兵部尚書の劉大夏は、岑猛は代々凶悪だから旧地に帰すべきでないとし、両府ともに流官を置き、岑猛は千户に降して福建に移すよう請い、帝はこれに従った。
- 正徳の改元の正月、召されて南京刑部尚書となり、一年余りして致仕した。
劉瑾による追及と晩年
- はじめ潘蕃が両廣を去ったのち、岑猛は田州に拠って移ろうとせず、知府の謝湖は岑猛の強暴を恐れてぐずぐずしていた。事が朝廷に聞こえ、謝湖は詔獄に逮えられたが、罪を潘蕃と韋經・毛鋭に押しつけ、韋經はさらに尚書の劉大夏に押しつけた。劉瑾はちょうど劉大夏を憎んでいたので、四人をあわせて逮えた。劉大夏は潘蕃の言に従わなかったことを罪とされ、潘蕃も岑猛を撫しきれなかったことに坐して、ともに肅州の戍に流された。正徳三年(1508年)九月のことである。
- やがて劉瑾は户部郎中の莊襗の言により、太監の韋霦を遣わして廣東の庫蔵を調べさせた。奏によれば、解送すべき贓罰の諸物の多くが朽ち損じ、梧州に貯えた塩利の軍賞銀六十余萬兩も期日どおり解送されていなかった。そこで潘蕃と前總督の劉大夏、前左布政使で仁和の人である沈鋭ら八百九十九人を逮問し、米を辺に納める罰を科した。沈鋭は清廉潔白で、すでに南京刑部右侍郎に遷ったのち辞職して帰っていたが、ここで職を奪われた。
- 劉瑾が誅されると、潘蕃はもとの官で致仕し、六年余りして卒した。沈鋭は嘉靖の初めにはじめて復職し、致仕した。
- 潘蕃が官を解かれて帰ったとき家がなく、他人の宅を借りて住み、同郷人と花の下で露座して酔えば行くにまかせた。その風情はこのようであった。