言官としての建言と辺務・漕運
- 叢蘭は字を廷秀といい、文登の人である。𢎞治三年(1490年)の進士で、戶科給事中となった。
- 中官の梁芳・陳喜・汪直・韋興は先に罪を得て退けられていたが、縁故を頼って京に戻ってきた。叢蘭は清寧宮の火災にちなんで疏を上げて六事を陳べ、梁芳らの罪を極論したので、彼らはついに廃された。
- まもなく述べた。吏部は詔書に従って、建言して誤りを蒙った諸臣の登用を請うたが、明らかな旨がすべてには従わなかった。これでは信を示す所以ではない。儀礼を失して糾弾された者は、詔獄に送るのを免じられたい。畿内の徴発と徭役は繁く重く、富民が免除を策して他の戶に代わらせている。是正すべきである、と。章は担当の役所に下された。
- 兵科右給事中に進んだ。都督僉事の吳安が伝奉によって官を得たので、叢蘭はその罷免を請うた。当時、團營の軍八千人を割いて九門の城壕を修めるよう命じられたが、叢蘭は「臣は先に営軍を選んだとき、もっぱら訓練にあたらせ再び差し出さぬと詔で許された。命が下って間もないのにまた前のように役に使うのでは、詔をどうするのか」と言い、そこで取りやめとなった。
- 通政參議に遷った。小王子が大同を侵すと、紫荊・倒馬などの諸関を経略するよう命じられ、敵騎が通れる小道は百十か所に及んだ。正德三年(1508年)、左通政に進み、翌年(1509年)冬、出て延綏の屯田を管理した。
- 安化王の寘鐇が反いたとき、叢蘭は十事を奏陳した。その中で、米を罰せられた文武の官は財産を売っても償えないこと、朝臣が流罪となると刑官がみだりに新例を引いて罪を練り上げその家財を没収すること、校尉が辺塞じゅうを歩き回って威勢を振るい人が身を保てないこと、を述べた。劉瑾は大いに憎み、旨を偽って厳しく責め、給事中の張瓚、御史の汪賜らはそこで旨に迎合して叢蘭を弾劾したが、劉瑾はちょうど辺境の事を憂えていたので不問に付した。数か月して劉瑾が誅されると、通政使に進み、まもなく戶部右侍郎に抜擢されて三邊の軍餉を督理した。
- 正德六年(1511年)、陝西巡撫の都御史藍章が四月の寇の乱によって漢中に移駐し、ちょうど河套に警報があったので、叢蘭に固原・靖虜などの軍務を兼管させた。叢蘭は上言した。陝西から起運する糧草はしばしば大戶に横取りされているので、官を委ねて護送させたい。鎮ごとに内帑の銀数万を発して糧草を前もって買っていただきたい。御史の張彧が耕地を洗い出した件については、𢎞治十八年(1505年)以前の税率どおりに子粒を免除されたい。靈州の鹽課は例に照らして開中を行い、商人を召して糧を買い入れたい。軍士の折色(現物に代わる支給)は担当者が多く削り取っているので、近隣の役所を選んで委ね支給させたい、と。従われた。
- その年の冬、南畿および河南が凶作となり、叢蘭に赴いて賑済させることになったが、まだ発たぬうちに河北の賊が宿遷から黄河を渡って鳳陽に迫ろうとした。そこで叢蘭にもとの官のまま廬州・鳳陽・滁州・和州を巡視させ、あわせて賑済を管理させた。河南の白蓮の賊である趙景隆が宋王と自称して歸德を掠めると、叢蘭は指揮の石堅、知州の張思齊らを遣わして撃ち斬らせた。九月に賊が平らぎ、功を論じて金・幣を賜り、俸を一級増され、召し返されて部の事にあたることとなったが、部に侍郎の欠員がなかったので、定員外に加えるよう命じられた。
- 翌年、大同に警報があり、居庸・龍泉などの関を巡視するよう命じられ、まもなく宣府・大同の軍餉を兼督し、右都御史に進んで宣府・大同・山東の軍務を総制した。内地にもみな堡を築かせ、寇が来れば塞下と同じように収容し守らせた。寇五万騎が萬全右衞から蔚州に向かって大いに掠奪し、また三万騎が平虜の南城に入ったので、失態を問われて半年分の俸を停められた。
- 正德十年(1515年)夏、漕運の監督に改められ、まもなく江北の巡撫を兼ねた。中官の劉允が仏を烏思藏に迎えに行く途上、叢蘭の管内を通って挨拶に来たが、辞して会わなかった。劉允は船五百余艘、人夫一万余人を要求したので、叢蘭は急ぎ疏を上げてその害を極言したが、返答はなかった。
- 四年いて、事によって兵部尚書の王瓊に逆らい、漕務を解かれてもっぱら巡撫を任じられた。寧王の宸濠が反くと、叢蘭は瓜洲に鎮を移した。正德十五年(1520年)、南京工部尚書に遷った。
- 世宗が即位すると、御史の陳克宅が叢蘭は江彬に付いたと弾劾したが、帝は叢蘭が平素清廉・謹慎であるとして不問に付した。叢蘭はそこで辞職を乞うて去り、没した。太子少保を贈られた。