明史卷一百八十五 列傳第七十三 王鴻儒

学問と官歴

  • 王鴻儒は字を懋學といい、南陽の人である。若くして書に巧みで、家が貧しく府の書記の助手をしていた。知府の段堅がその書を愛して役所に留め、みずから教え、学校に入れて諸生とした。そこで郷試に首席となった。
  • 成化の末に進士に登り、南京戶部主事を授けられ、官を重ねて郎中となり、山西僉事に抜擢されて副使に進み、いずれも学政を監督した。九年在任して士風は大いに盛んになった。孝宗はかつて劉大夏に「布政使・按察使のうちでは王鴻儒のような者は他日、大いに用いられよう」と語った。
  • 正德と改元されると病と称して帰った。劉瑾が政をほしいままにしながら名流を召し集めたので、正德四年(1509年)夏、國子祭酒に起用されたが、父の喪で去った。あらためて南京戶部侍郎に起用され、吏部右侍郎を歴任し、まもなく左侍郎に転じた。
  • 正德十四年(1519年)、南京戶部尚書に遷った。着任したばかりのとき宸濠が反き、軍餉の監督を命じられたが、背に腫れ物を発してついに没した。文莊と諡された。
  • 王鴻儒は学問において理を窮め用に致すことを務め、世に推重された。吏部にあっては清廉・公正に身を保ち、門に私的な訪問はなかった。弟の鴻漸も郷試に首席となり、進士から官を重ねて山東右布政使となり、清廉・静謐で称された。