貴州・延綏での功
- 黄珂は字を鳴玉といい、遂寧の人である。成化二十年(1484年)の進士で、龍陽知縣を授けられ、治績が聞こえて御史に抜擢された。
- 出て貴州を巡按した。金達長官の何碖が謀反を企てたので、計略をめぐらして捕らえ、流官(中央任命の官)に改めた。賊婦の米魯が乱を起こすと、巡撫の錢鉞、総兵官の焦俊らを弾劾して、いずれも罪を得た。畿内の巡按に移り、山西按察使を歴任した。
- 正德四年(1509年)、右僉都御史に抜擢されて延綏を巡撫した。安化王の寘鐇が反き、四方に檄を伝えて劉瑾討伐を名目とした。他の鎮は劉瑾を畏れて報告しなかったが、黄珂はその檄を封じて上申し、あわせて便宜八事を陳べ、急ぎ副總兵の侯勛、參將の時源に兵を分けて黄河の東を扼えさせたので、賊は出られなかった。
- 伊伯格勒が辺境を侵すと、黄珂は総兵の馬昂とともに軍を督して木瓜山でこれを破った。正德六年(1511年)に再び辺境を侵すと、黄珂は副總兵の王勛ら七人の将に檄して要害を分け守らせ、挟み撃ちにして再び破った。たびたび璽書と銀・幣を賜った。
- その年の秋、入って戶部右侍郎となり倉場を総督した。河南で用兵があり、出て軍餉を管理した。地元の兵と他所からの兵が十余万、追撃と転戦で移動が定まらなかったが、黄珂は場所に応じて輸送したので、軍事に不足がなかった。功を録して俸を一級増され、刑部に移って左侍郎に進み、のち兵部を補佐した。寧王の宸濠が護衛の復活を謀ったとき、黄珂はひとり固く反対の議を主張した。
- 正德九年(1514年)、南京右都御史に抜擢され、まもなくその地で工部尚書を拝した。高齢に達したとして辞職を乞うて帰り、没した。太子少保を贈られ、簡肅と諡された。