明史卷一百八十四 列傳第七十二 劉瑞

孝宗・武宗朝の建言

  • 劉瑞は字を德符といい、内江の人である。父の時斆は山東僉事を務め、清廉と恵政で称された。
  • 劉瑞は𢎞治九年(1496年)の進士に挙げられ、庶吉士に選ばれ、檢討を授けられた。学を好み身を潔く保ち、事に遇うたびに論じ建言した。
  • 清寧宮が火災に遭ったときは、醮壇を廃するよう請うた。当時、内閣と□官(底本欠字)を召して治道を諮問していたが、そこで人々は言った。もと宦官の李廣の門下の内臣はことごとく罪に処すべきである。前の太監である汪直は先帝の罪人であるのに、今また起用をうかがっているから退けて遠ざけるべきである。副使の楊茂元、郎中の王雲鳯は直言によって罪を得たので、召し返して官に復すべきである。京師の萬春宮・興濟の真武廟・夀寧侯の邸、地方の興・岐・衡・雍・汝・涇の諸府は土木がしきりに興っているので、急を要さぬものはすべて中止すべきである。都匀の勝利は鄧廷瓚がその功を冒し、賀蘭の征討は王越がその釁を開いたものであるから、上を欺いた罪を遡って正すべきである、と。上聞と報じられた。
  • 闕里(曲阜)の廟が完成し、大學士の李東陽が祭告に遣わされたとき、劉瑞は先師(孔子)の封号・諡号を改め定めるよう請うたが、実現しなかった。
  • 武宗が即位すると、疏を上げて治の本を正す九事を陳べ、祭酒の章懋、侍郎の王鏊、都御史の林俊・雍泰を召すよう請い、あわせて參政の王綸、副使の王雲鳯、僉事の胡獻、知府の楊茂元、照磨の金濂を飛び級で抜擢するよう求めた。これによって諸臣の多くが登用された。
  • 劉瑾が権を握ると、劉瑞はただちに病と称して退いた。貧しくて郷里に帰れず、従母の子である李充嗣を澧州に頼った。劉瑾は劉瑞を奸党として掲示し、また先に雍泰を推薦したことを理由にその名を除き、米を罰として塞上に納めさせた。これによっていよいよ困窮し、弟子を取って生計を立てた。
  • 劉瑾が誅されると、副使として浙江の学校を監督し、召されて南京太僕少卿となった。嘉靖二年(1523年)、南京太常卿から禮部右侍郎に遷った。災変にちなんで同僚とともに六事を条上し、また齋醮は無益であって政を妨げ、織造は費用がかさんで民を病ませると述べた。帝は多く採納した。
  • 大礼の議が起こると、劉瑞は九卿とともに合同の疏を上げて大宗・小宗の義を極言し、都合数千言に及んだ。
  • 嘉靖四年(1525年)、官にあって没した。尚書を贈られ、隆慶の初めに文肅と諡された。

史論

  • 贊に言う。周洪謨らは詞臣から卿・貳(次官)に至り、あるいは職務にひたむきに励み、あるいは堂々と建言した。進講にあたっては君心を啓き潤すことを心とし、官を守っては可否を献じて力を尽くした。文学侍従の選に、いずれも恥じるところがない。