明史卷一百八十四 列傳第七十二 吳寛

東宮講学と廟祔の議

  • 吳寛は字を原博といい、長洲の人である。文章と徳行によって諸生のあいだで名声があった。成化八年(1472年)、會試も廷試もともに首席となり、修撰を授けられ、東宮で孝宗に侍した。任期が満ちて右諭德に進んだ。
  • 孝宗が即位すると、旧師であることから左庶子に遷り、『憲宗實録』の編纂に加わり、少詹事兼侍講學士に進んだ。𢎞治八年(1495年)、吏部右侍郎に抜擢された。継母の喪に遭ったとき、吏部の員が欠けても、位を空けて待つよう命じられた。喪が明けて任に戻り、左侍郎に転じ、詹事府を掌ることに改められ、東閣に入って誥勅の起草をもっぱらとし、なお東宮で武宗に侍した。
  • 宦官の多くは太子が儒臣に近づくことを望まず、しばしば用事を持ち込んで講読を妨げた。吳寛はその僚属を率いて上疏して言った。東宮の講学は、寒暑や風雨なら休み、朔望や節日なら休む。一年に数か月を超えず、一月に数日を超えず、一日に数刻を超えない。進講の時が少なく講を休む日が多いのに、どうしてさらに他事で誦読を妨げてよいのか。古人は八歳で師に就くとただちに外に起居した。身近な者を離れて正しい人に親しませようとしたのである。庶民でさえそうであるのに、まして太子は天下の本ではないか、と。帝は嘉納した。
  • 𢎞治十六年(1503年)、禮部尚書に進み、他はもとのままであった。
  • これより先、孝莊錢太后が崩じたとき、廷議は孝肅周太后の没後にはともに裕陵に葬り、睿廟に祔し、礼はいずれも嫡后と同じくすることとしていた。このとき孝肅が崩じて廟に祔そうとしたが、帝はやはり両者をともに祔することに疑いを持ち、礼官に下して集議させた。吳寛は、『魯頌』の閟宮も『春秋』の仲子の宮の考察も、いずれも別廟であり、漢・唐もまたそうであった、と述べた。大臣も多くは別廟を主張したので、帝はこれに従った。
  • 当時、詞臣で名望の高い者としては吳寛が第一、謝遷がこれに次いだ。謝遷は入閣してから劉健に、吳寛を引いてともに政にあたらせたいと言ったことがあったが、劉健は固く従わなかった。後日また「吳公は科挙の順位も年齢も名望もみな遷より先である。遷はまことに恥じ入っている。どうして吳公に私する気持ちがあろうか」と言った。謝遷が引退するとき吳寛を後任に挙げたが、これも用いられなかった。内外はみなこれを惜しんだが、吳寛はいたって平然として「私の初めの望みはここまで及ばなかった」と言った。
  • 七十になってたびたび病を理由に退官を願ったが、そのつど慰留され、ついに官にあって没した。太子太保を贈られ、文定と諡された。長子の奭に中書舍人を授け、次子の奐を国子生に補したのは異例の恩であった。
  • 吳寛は行いが高潔で、激しく矯めることをせずにみずからを正しく保った。書物は読まないものがなく、詩文には規範があり、あわせて書法にも巧みであった。田数頃を持ち、それで親族や旧友の貧しい者を援けた。友人の賀恩が病むと邸に移し、朝夕に看病し、賀恩が死ぬと一か月ものあいだ白い衣を着た。