篇首の立伝者一覧
出自と首輔就任
- 徐溥は字を時用といい、宜興の人。祖父の徐鑑は瓊州知府で恵政があった。
- 景泰五年(1454年)の進士及第で、編修に任じられた。憲宗の初め、左庶子に抜擢され、再び遷って太常卿兼学士となった。
- 成化十五年(1479年)、礼部右侍郎を拝し、まもなく左に転じ、久しくして吏部に改まった。
- 孝宗が位を嗣ぐと文淵閣大学士を兼ねて機務に参預し、まもなく礼部尚書に進んだ。𢎞治五年(1492年)、劉吉が罷められると徐溥が首輔となり、たびたび少傅・太子太傅を加えられた。
- 徐溥は劉吉の恣意の後を承けて、安静をもって鎮め、成法を守ることに努めた。同列の劉健・李東陽・謝遷らと心を協せて治を輔け、不可とすべき事があればそのつど共に争った。
内閣としての諫争
- 欽天監で革職された監正の李華が、昌国公の張巒のために葬地を選んだことで中旨により復官したとき、徐溥らは「即位以来、内降はなかった。僥倖の門がひとたび開けば末流をどう抑えられよう。臣らは詔を奉じられない」と言った。
- 𢎞治八年(1495年)、太皇太后が崇王を召して来朝させようとしたとき、徐溥らは尚書の倪岳とともに諫め、帝が代わって願い出たので取りやめとなった。
- 占城が安南の侵擾を奏し、帝が大臣を遣って解こうとしたとき、徐溥らは「外国が互いに侵すのは、担当官が檄で諭せば足りる。使いを遣るには及ばない。万一、命に抗すれば国体を損なう。罪を問うて師を興せば後患はさらに大きい」と言った。そこで遣わさぬことになった。
- その年十二月、三清の楽章を撰するよう詔された。徐溥らは言った。天は至尊で対するものがない。漢が五帝を祀ったことさえ儒者は非とした。まして三清は道家の妄説にすぎない。一つの天の上にどうして三大帝があろうか。しかも周の柱下史・李耳をその一に当てるのは、人鬼を天神に列することで、矯誣も甚だしい。郊祀の楽章はみな太祖が自ら作られたものである。今、時俗の詞曲を作って神を享けるのは、冒瀆がとりわけ甚だしい。臣らは儒書を誦読しており、邪説や俚曲はもとより不慣れで、道でないもので陛下にお仕えすることはできない。
- 国家が文淵閣を設けて学士を置いたのは、まことに政事を謀り経史を講論し、本原を培い欠失を匡すことを望んでのことで、阿諛して旨に順い、ただ言うままに違わぬことを望まれたわけではない。今、経筵は早く終わり、日講は久しく空しく、異端が隙に乗じて入り込んでいる。これはみな臣らが不甲斐なく、聖心を啓き初政を保つに足りぬからで、憂え愧じて身の置きどころがない。数か月来、中旨を奉じて処分の当を得ぬものは封じ返して奏を執ること再三に及んだ。どうか陛下は聴き従い、臣らが駑鈍を尽くしていささかでも益をなせるようにしていただきたい。楽章一事に限った話ではない、と。奏が入ると帝は嘉して容れた。
- 帝は𢎞治八年(1495年)以後、視朝がしだいに遅くなったので、徐溥らはたびたびこれを申し上げたが、頷かれるだけであった。
- 中官の李廣が焼錬と斎醮によって寵を得たので、𢎞治十年(1497年)二月、徐溥らは上疏して極論した。
- 旧制では内殿で日に二度奏事し、重い事は時を選ばず上聞した。また常に儒臣を面と向かって召して政事を諮問された。今は奏事は日に一度だけ、朝参のほかに天顔を望むこともできない。章奏の批答は時を定めて決せられず、あるいは数か月留められ、あるいはついに施行されない。事は滞りがちで政体を損なっている。
- 経筵の進講は毎年数日にすぎず、正しい士は疎んじられ邪説が行われている。近ごろ斎醮・修錬の説を進める者があると聞く。宋の徽宗は道教を崇め、科儀・符籙は最も盛んであったが、ついに乗輿が播遷するに至った。金石の薬は性が酷烈なものが多く、唐の憲宗は桞泌を信じて命を落とした。その禍は鑑とすべきである。
- 今、龍虎山の上清宮、神楽観の祖師殿および内府の番経厰はみな焼け失せて残らなかった。もし霊があるなら、なぜ自らを守れなかったのか。天がその穢れを厭うことは明らかである。陛下がもし儒臣を親近し、正道を明らかにし仁政を行われれば、福祥と善慶は召さずとも至る。どうして妖妄の説を借りる必要があろうか。
- 古来、奸人が君心を蠱惑するときは必ず「太平無事」と言う。唐の臣・李絳は「事に先んじて憂えれば憂うることなし、事が至ってから憂えても事に益なし」と言った。今、太平が久しく続いて安逸に溺れ、目前は無事のように見えるが、工役はしきりに興り、取り立ては百出し、士馬は疲弊し、里閭は困窮し、愁嘆の声が和気を犯して、熒惑が度を失い、太陽に光なく、天が鳴り地が震え、草木が妖を生じ、四方の奏報は空しい月とてない。将来の患いは明らかに憂うべきである。陛下は九重に高く居られ、言官はみな罪を畏れて口を閉ざしている。臣らまで言わなければ、誰が陛下のために言おうか、と。
- 帝はその言に感じ、三月甲子、文華殿に出て徐溥および劉健・李東陽・謝遷を召見し、諸司の題奏を渡して「先生方と議したい」と言った。徐溥らが旨を擬すると、帝は手ずから改め定めた。事項の多いものについて劉健が外に出して詳しく閲することを請うと、帝は「ここで面議してはどうか」と言った。終わると茶を賜って退出させた。
- 成化年間に憲宗が彭時・商輅を召対して以来、このときに至ってようやく再びこれが見られたので、朝廷こぞって盛事と称えた。しかし徐溥の在位中、召見はこの一度きりであった。
- まもなく災異によって言を求めたが、廷臣が上げた封事は月を経ても返答がなく、何鼎を救おうとして旨に逆らい罪を待つ言官も久しく放置されていた。徐溥らがみなこれを申し上げたので、諸章はすべて下され、諸言官は罷めて問われなかった。
- 徐溥は当時七十歳で、年齢を理由に退職を求めたが許されず、詔により風雨や寒暑のときは朝参を免ぜられた。
- 𢎞治十一年(1498年)、皇太子が出閣したので少師兼太子太師を加えられ、華蓋殿大学士に進んだ。目の病により帰郷を乞い、帝は久しく引き留めたが、ついに許して恩賜を加えた。一年余りで卒し、太師を贈られ、文靖と諡された。
- 徐溥の性は重厚で度量があり、内閣にあること十二年、従容として輔導した。人に過失があればそのつど庇って「天が才を生むのは甚だ難しい。些細な瑕で棄てるに忍びない」と言った。大獄や言官の逮繋にたびたび遭ったが、そのつど委曲に取りなした。孝宗は仁厚で徐溥らの言を多く容れたので、天下は陰にその福を受けた。
- かつて「祖宗の法度は民を恵むために備わっている。ただ守れないことが患いである」と言い、ついに改め置くところがなかった。
- 性はきわめて孝で、二度まで墓に廬した。自らの暮らしは甚だ質素で、施しを好み、義田八百畝を置いて宗族を養い、永く伝わるよう官に記録させることを請うた。帝はそのためにその徭役を免じた。