明史卷一百八十 列傳第六十八 姜洪

時政八事の上疏

  • 姜洪は字を希範といい、廣徳の人。成化十四年(1478年)の進士で、盧氏知県に除せられ、単騎で農桑を勧めた。民の姜仲禮が父の死罪に代わりたいと願ったので、姜洪は奏して免じた。徴されて御史を拝した。
  • 孝宗が即位すると時政八事を陳べ、太監の蕭敬、内閣の萬安・劉吉、学士の尹直、侍郎の黄景・劉宣、都御史の劉敷、尚書の李裕・李敏・杜銘、大理丞の宋經を次々に非難した。
  • あわせて、致仕尚書の王恕・王竑・李秉、去任の侍郎の謝鐸、編修の張元禎、検討の陳獻章、僉事の章懋、評事の黄仲昭、御史の强珍・徐鏞・于大節、給事中の王徽・蕭顯・賀欽、員外の林俊、主事の王純、および現任の尚書の余子俊・馬文升、巡撫の彭韶、侍郎の張恱、詹事の楊守陳を薦めた。さらに「指揮の許寧、内官の懷恩はともにその輩から抜きん出ており、任使に副うに足る」と言った。
  • その他に陳べたところは近幸を斥けるものが多く、疏の文は万言に近かった。帝は嘉して容れたが、斥けられた者は恨みを収めなかった。
  • 𢎞治元年(1488年)、湖広の巡按として出、督漕都御史の秦紘と文書のやりとりで争って弾劾された。担当官は姜洪に罪がないと申し立てたが、劉吉が陥れようとして再び礼部の会議に下し、ついに夏縣知県に貶した。御史の歐陽旦が姜洪および暢亨らの召還を請うたが容れられなかった。
  • 桂林知府に遷り、猺・獞が古田を侵擾したので兵を請うて討ち平らげた。雲南参政に抜擢され、土官の陶洪が八百媳婦と結んで乱を起こそうとしたので、姜洪は隙に乗じて剪滅した。
  • 山東左参政を歴任し、正徳二年(1507年)に山西布政使に遷った。劉瑾が印を賀する銭を求めたが応じなかったので、正徳四年(1509年)二月、中旨により致仕させられた。劉瑾が誅されると山東左布政使として起用され、正徳七年(1512年)、右副都御史として山西を巡撫したが、一年経たぬうちに卒した。
  • 姜洪の性は廉直で、死後は喪を出すこともできなかった。天啓初年、莊介と追諡された。

歐陽旦・暢亨(姜洪伝附)

  • 歐陽旦は安福の人。成化十七年(1481年)の進士。休寧知県から御史に抜擢され、かつて劉吉を逐い皇荘を罷めるよう請うた。湖広僉事、浙江副使を歴任し、南京右副都御史で終わった。
  • 暢亨は字を文通といい、河津の人。成化十四年(1478年)の進士。長垣知県から御史に抜擢され、浙江を巡按した。凶作の年に上供の綾・紗などの停止を奏した。
  • 𢎞治元年(1488年)二月、景寧県の屏風山に異獣が万余、大きさは羊ほどで白色、尾を銜えて連なり空に浮かんで去った。暢亨は温州・処州の銀課を罷め、鎮守中官の張慶を法に付すことを請うた。章は担当官に下され、銀課は減額を得て張慶は陳弁を求められた。張慶はそこで「暢亨の考察は公正でない」と訐ったので、暢亨の俸三か月が停められた。
  • 暢亨はさらに僉事の鄒滂を弾劾したが、鄒滂もまた暢亨を訐り、張慶らがこれを仕組んだので、暢亨は逮えられて涇陽知県に謫された。給事中の龎泮が上疏して争ったが聴かれなかった。