明史卷一百七十五 列傳六十三 衛青・董興・何洪・劉玉・仇鉞・神英・曹雄・馮禎・張俊・楊鋭

篇首の立伝者一覧

  • 底本の巻頭には、この巻に伝を立てた者と附伝の者が次のように並ぶ。衞青(子の頴を附す)、重興、河洪、劉玉、仇鉞、神英(子の周を附す)、曹雄(子の謙を附す)、馮禎、張俊(李鋐を附す)、楊鋭(崔文を附す)。

衞青――唐賽兒の乱を平らげる

  • 衞青は字を明德といい、松江華亭の人。蘇州の百戸として成祖に降り、功を積んで都指揮僉事に至り、中都留守司の事に臨み、のち山東に改められて倭に備えた。
  • 永樂十八年(1420年)二月、蒲臺の妖婦で林三の妻である唐賽兒が乱を起こした。石の函の中から宝書と神剣を得たと自称し、鬼神を使役し、紙を切って人馬を作って戦わせると言った。徒党は数千に及び、益都の卸石柵の要害に拠った。指揮の高鳳が敗れて歿し、勢いはますます盛んになった。その一味の董彦昇らは莒と即墨を攻め落とし、安丘を囲んだ。
  • 總兵官の安遠侯柳升が都指揮の劉忠を率いて賽兒の砦を囲んだところ、賽兒は夜に官軍を襲い、軍は乱れ、忠は戦死し、賽兒は逃げ去った。夜が明けて升はようやく気づいたが追いつけず、賊の一味の劉俊らと男女百餘人を捕らえたにとどまった。
  • 賊は安丘をいよいよ急に攻めた。知縣の張旟と丞の馬撝が死を賭して戦い、賊は落とせなかった。そこで莒・即墨の衆を合わせて一萬餘人で青を攻めた。青はちょうど海上に屯していたが、これを聞いて千騎を率いて昼夜馳せて城下に至り、二たび戦って大いに破った。城中も鬨の声を上げて出、賊二千を殺し四千餘人を生け捕り、ことごとく斬った。当時、城中は朝夕も持ちこたえられず、青の救援がやや遅れていれば城は必ず陥ちていた。
  • 賊が破れてから升がようやく到着した。青が出迎えて謁すると、升は自分を待たなかったことに怒り、引きずり出した。
  • この日、鰲山衞指揮の王真もまた兵百五十人で諸城の賊を殲滅し、賊はついに平らいだ。ただし賽兒はついに捕らえられなかった。
  • 帝は書を賜って青を労い、升を厳しく責めた。尚書の吳中らが升を弾劾し、さらに升は青の功を妬んだと言った。そこで升を獄に下し、青を山東都指揮使に、真を都指揮同知に、旟と撝を左右の參議に抜擢し、賞賜にはそれぞれ差があった。
  • 青は海上に還って倭に備えたが、まもなく事に坐して獄に繋がれた。宣德元年(1426年)、帝はその功を思って釈し、復職させた。当時、京師では営繕の役が多く、海防の士卒まで徴発されていたので、青がこれを言上して交代させることができた。
  • 英宗が即位すると都督僉事に進み、まもなく卒した。青には孝行があり、士卒をよく慰撫し、海上にあること十餘年に及んだので、海辺の人々はこれを慕い、朝廷に願い出て祠を立てて祀った。

衞頴(附伝)――奪門の功で宣城伯

  • 次子の頴は正統の初めに濟南衞指揮使を襲いだ。景帝が立つと詔を奉じて入衞し、再び遷って都指揮同知に至った。石亨の推薦で署都督僉事に抜擢され、五軍營の右哨を管した。黄花鎮・白羊口および西直門で寇を防いだ功を論じられ、累進して都督同知となった。
  • 景泰三年(1452年)、宣府を協鎮し、翌年に召還された。天順元年(1457年)、奪門の功で宣城伯に封じられ世券を賜り、出て甘肅に鎮した。バオラ(保喇)が侵入したのを防げず、担当官に弾劾されたが、詔して問われなかった。
  • 亨が失脚したとき、頴は辺を守っていたため爵を奪われずに済んだ。憲宗が即位すると、廷議で頴は任に堪えないとされて召還された。折しも奪門による世爵がことごとく革められたが、頴は天順年間に西番のマギス・ドンシャク(瑪吉思棟沙克)の諸族を征した功を自ら訴え、詔して従来どおりとされた。
  • 成化二年(1466年)、遼東總兵官となり、まもなく病と称して罷めた。給事中の陳鉞らが弾劾して獄に下されたが、まもなく宥された。弘治年間に卒し、侯を贈られ、諡は壯勇。
  • 爵は子に伝わり、孫の錞に至った。錞は嘉靖のとき神機營を督し、たびたび太保兼太子太師を加えられた。四代伝わって時春に至り、崇禎のとき後府を掌った。京師が陥ちると、鉄券を懐に抱いて一家十七人がみな井戸に身を投げて死んだ。

董興――黄蕭養の乱を平らげる

  • 董興は長垣の人。初め燕山右衞指揮使となり、累遷して署都指揮同知となった。正統年間、新建伯の李玉らが興を將才として挙げ、署都指揮使に進んで京營で調練を管した。また推薦により署都督僉事に抜擢され、右參將として寧陽侯の陳懋に従い鄧茂七を討ち、その残党を建寧で破って都督同知に進んだ。
  • 南海の賊である黄蕭養が廣州を囲み、安鄉伯の張安と都指揮の王清が戦死した。賊の衆は城を攻めていよいよ急となり、詔して興を左副總兵に拝し、江西・兩廣の軍を調して討たせ、侍郎の孟鑑に軍務を贊理させた。興は天文生の馬軾を自分に随行させた。興は果断で鋭かったが部下を統制できず、軾がこれを戒めた。
  • 景泰元年(1450年)二月、師は廣州に至った。賊の舟は千餘艘で勢いは甚だ盛んであったが、徴した兵はまだ到着していなかった。諸將は援軍を待とうと請うたが、軾は「廣州の民は首を長くして待って久しい。狼兵を率いて撃つだけでも、朽ちた木を折るようなものだ」と言った。興はこれに従った。
  • ほどなく兵が大挙して集まり、進んで大洲に至って賊を撃ち、殺した者と溺死した者は一萬餘人、残りの多くは帰順した。蕭養は流れ矢に当たって死に、その首を函に納めて献じ、その父と子らを捕らえ、残党はみな誅に伏した。
  • 功を論じて右都督に進み、留まって廣東に鎮した。給事中の黄士儁が、興は寛にすぎて降人を放任したと弾劾し、その官を降されたが、翌年に復職した。久しくして召還され、京營を分督した。
  • 曹吉祥と姻戚を結び、奪門の功を偽って海寧伯に封じられた。まもなく總兵官として遼東に鎮し、世券を賜った。奪門による爵を革める議のとき、興は辺を守っていたので免れたが、吉祥が誅されると爵を奪われ、右都督のまま廣西に送られて功を立てることとなった。錦衣の李貴の推薦で爵を戻され、宣府の總兵となり、再び世券を賜った。憲宗が即位すると罷めて還り、のち世襲を停められ、家に居ること十餘年で卒した。

何洪――趙鐸の乱に戦死す

  • 何洪は全椒の人。世職を嗣いで成都前衞指揮使となった。正統年間に麓川の征に従い、景泰の末には天柱・銅鼓の征に従い、いずれも功があった。たびたび遷って都指揮使となり、四川都司の事を掌り、東苗の平定に加わった。
  • 憲宗が即位すると功を論じて都督僉事に抜擢された。巡撫の汪浩が洪を四川に留めることを願い出、許された。
  • 德陽の人である趙鐸が反し、自ら趙王と称した。漢州の諸賊はみなこれに帰し、番の衆と連なってたびたび城を陥れ将吏を殺し、その一味の何文讓と僧の悟昇を遣わして安岳などの諸縣を掠めさせた。洪は悟昇を斬り、文讓を生け捕った。
  • 鐸が成都に迫ろうとしたので、官軍は三路に分かれて討った。洪は都指揮の寧用とともに彰明へ赴いたが、賊は引き去った。梓潼の朱家河まで追って力戦し、賊はやや退いた。洪は勝ちに乗じて陣に突入したが、後軍が続かず賊に囲まれた。左右に跳ね回って賊を甚だ多く殺したが、力尽きて死んだ。
  • 洪は勇敢で士をよく慰撫し、号令は厳しく、蜀の将で及ぶ者はなかった。その死後、官軍は気力を失った。
  • 四川都指揮僉事で臨淮の人である劉雄もまた戦死した。雄は剛毅強靭で、敵に遇えば常に前に出た。かつて漢州で賊を捕らえ七十餘人を生け捕った。鐸の乱のときは羅江の大水河まで追って自ら数人を斬った。賊が続けて敗れたところで千戸の周鼎が傷ついたので、雄が前に出て救おうとし、まっすぐ賊陣に駆け込んで、群がる刺撃を受けて死んだ。
  • 詔して洪に都督同知を贈り祭葬を賜い、子は都指揮僉事に襲廕された。雄には都指揮同知を贈り祭を賜い、子に職を襲がせて二階を越えさせた。
  • 洪は死んだが、綿竹の典史である蕭讓が郷兵を率いて鐸を撃ち破った。官兵がしきりに進撃したのでその一味は次第に散り去り、鐸は孤立して残る賊を率いて彰明へ向かった。千戸の田義らが梓潼に伏兵を置き、參將の周貴がまっすぐその巣を衝いた。賊は大敗して夜に石子嶺へ逃げ、儀(義)が急ぎ進んで鐸を斬り、賊はことごとく平らいだ。成化元年(1465年)正月のことである。

劉玉――満俊の乱を平らげる

  • 劉玉は字を仲璽といい、磁州の人。生まれつき膂力があり、曹吉祥の家に仕えた。麓川の征に従って副千戸を授かり、功を積んで都指揮僉事に至った。
  • 天順元年(1457年)、奪門の功で都督僉事に進み、まもなく右參將として潯州を守備した。慶遠の蠻が博白および廣東の寧川を荒らしたので、玉は左參將の范信とともに邀撃して破った。
  • ほどなく貴州の分守を命じられ、方瑛に従って貴東の苗を討ち、千把豬を殲滅し、西堡の苗を討ってその首領である楚得を捕らえ、前後して首級千を斬り、その巣を焼いて還った。ほどなく右副總兵に改められ、貴州に鎮守した。
  • 吉祥が誅されると、玉は吏に下されて斬に当たったが、地が遠くて謀議に加わっていなかったので死を免れ、海南の副千戸に謫された。
  • 天順六年(1462年)、帝が谷登を甘肅副總兵にしようとしたとき、李賢が、登は任に堪えず玉は老成であると言ったので、改めて玉を都督僉事・右副總兵として涼州に鎮守させた。矩咱族が叛くと、兵を合わせてこれを平らげ、都督同知に進んだ。
  • 成化四年(1468年)、滿俊が固原で乱を起こし、白圭が玉を總兵官に挙げ、左右參將の夏正・劉清を統べて討たせた。兵は七手に分かれ、玉は總督の項忠とともに石城に至った。賊はすでにたびたび敗れていたが、折しも毛中が死に、玉もまた包囲され流れ矢を受けたが、力戦して脱出した。二か月にらみ合い、大小百十戦してついに平らげた。左都督に進んで右府の事を掌った。自ら先の西堡の功を訴え、俸百石を増して耀武營を掌るよう命じられた。
  • 成化六年(1470年)、左副總兵として朱永に従って延綏に出た。五月、河套の部が侵入し、玉は衆を率いてこれを防ぎ退けた。翌年に卒し、固原伯を贈られ、諡は毅敏。
  • 玉は下僕から身を起こしたが勇決は人に過ぎ、士をよく慰撫し、赴いた先でくじけたことがなかった。滿俊が叛いて石城の険に拠り、たびたび官軍を破ったとき、玉の戦いぶりが最も力強かったが、功を論ずるにあたっては一級を賜ったにすぎず、当時これを薄いと惜しんだ。子の文は指揮使を襲いだ。

仇鉞――安化王の乱を内側から破る

  • 仇鉞は字を廷威といい、鎮原の人。初め傭われの卒として寧夏總兵府に仕え、大いに信任され愛された。折しも都指揮僉事の仇理が嗣子なく卒したので、鉞にその世職を襲がせて寧夏前衞指揮同知とした。理は江都の人であったので、鉞は自ら江都の仇氏と称した。再び賊を破った功で都指揮僉事に進んだ。
  • 正德二年(1507年)、總制の楊一清の推薦により寧夏遊撃將軍に抜擢された。
  • 正德五年(1510年)、安化王の寘鐇および都指揮の何錦・周昻、指揮の丁廣が反した。鉞はこのとき城外の玉泉營に駐屯していた。変を聞いて逃げようとしたが、妻子が城中にいて殺されることを恐れ、そこで兵を率いて入城し、甲を解いて寘鐇に謁し、帰って家に臥して病と称し、率いていた兵を分けて賊の陣営に属させた。錦らはこれを信じ、たびたび計を問いに来た。鉞も偽って腹心を打ち明けるふりをしながら、ひそかに壮士を結び、人を城外へ忍び出させて、官軍が朝夕にも到着すると報せて戻らせた。
  • 鉞はそこで錦と廣を欺いて、急ぎ出兵して渡し場を守り、東岸の兵に河を渡らせぬようにすべきだと勧めた。錦と廣は果たして陣営を挙げて出、昻だけが城を守った。寘鐇が旗祭りのため鉞を召したが、鉞は病が重いと称した。昻が見舞いに来ると、鉞はまさに固く臥して呻いており、伏せていた兵が突然起きて昻を打ち殺した。鉞はそこで甲をつけ刀を横たえ、その首を提げて馬に躍り乗り大呼すると、壮士がみな集まった。まっすぐ寘鐇の邸に馳せてこれを縛り、寘鐇の令と偽って錦と廣を呼び戻し、ひそかにその部下に寘鐇を捕らえた次第を告げたので、衆はついに大いに潰えた。錦と廣は単騎で賀蘭山へ逃げたが、巡邏の兵に捕らえられた。事を起こしてから十八日で敗れたのである。
  • これより先、中央では変を聞き、神英を總兵官とし鉞を副とする議があった。ほどなく鉞が賊に降ったと伝わり、敕を追い戻そうとしたが、大學士の楊廷和が「鉞は必ず賊に従うまい。朝廷が抜擢し用いていることを知らせれば志はいよいよ堅くなろう。そうでなければ良將を棄てて敵に与えるだけだ」と言い、追い戻さなかった。事は果たして収まった。
  • しかし劉瑾は陝西總兵官の曹雄を寵愛して鉞の功をことごとく雄に帰したので、鉞はついに特別な抜擢を受けなかった。巡按御史の閻睿がその功を訴えたところ、詔して俸三か月を奪われた。瑾が誅されて初めて署都督僉事に進み、寧夏總兵官となり、まもなく功を論じて咸寧伯に封じられ、禄千石と世券を賜った。
  • 翌年冬、召還されて三千營を掌った。正德七年(1512年)二月、平賊將軍に拝され、都御史の彭澤とともに河南の盜である劉惠・趙燧を討ち、中官の陸誾がその軍を監した。
  • 到着せぬうちに參將の馮禎が洛南で戦死し、賊の勢いはいよいよ盛んになった。のち官軍が到着すると聞いてついに汝州へ走り、また官軍が要害を扼したと聞いて寶豐へ走り、さらに舞陽・遂平を経て汝州の東南を転々と掠め、敗れて固始へ逃げ、潁州に至って朱臯鎮に屯した。永順宣慰の彭明輔らがこれを撃ち、賊はあわてて河を渡って溺死する者三千人、残る衆は光山へ走った。
  • 鉞は追いついて諸將の神周・姚信・時源・金輔に左右から挟み撃たせ、賊は大敗し、首級千四百餘を斬った。湖廣の軍もまたその別部の賈勉兒を羅田で破った。賊は道すがら潰え散り、六安から舒城を陥れ、また光山に戻って商城に至った。官軍が急に追ったので、賊はまた南して六安を攻め、陥ちようとしたところで時源らが河を渡って進み、七里岡でこれを破った。賊は廬州へ向かい、定遠の西に至ってまた敗れ、六安に戻った。
  • 賊はその衆を二つに分けた。劉惠と趙鐩の二人の弟である鐇・鎬が一萬餘人を率いて北して商城へ走り、鐩は道でその徒の張通および楊虎の残党数千人に遭って勢いが再び盛んになり、鳳陽を掠め、泗・宿・睢寧・定遠を陥れた。
  • そこで澤と鉞は謀って、神周に鐩を追わせ、時源と金輔に惠を追わせ、姚信に勉兒を追わせた。勉兒と鐩がまた合流したので、周と信は宿州で続けてこれを破り、應山まで追って、その衆はほぼ尽きた。鐩は髪を剃り度牒を懐にして、ひそかに江夏の飯村店に至ったが、軍士の趙成が捕らえて京師に送り、誅に伏した。
  • 源と輔は劉惠を追って連戦連勝、惠は窮して南召へ走ったが、指揮の王謹が土地嶺で追いつき、惠の左目を射当て、惠は自ら縊れて死んだ。勉兒はたびたび都指揮の朱忠・夏廣に敗れ、項城の丁村で捕らえられた。残党の邢本道・劉資および楊寡婦らも前後してみな捕らえられた。出師してから四か月で河南の賊はことごとく平らいだ。

趙鐩(挿伝)――河南の賊魁

  • 趙鐩は一名を風子といい、文安の諸生であった。劉七らの乱が起こったとき、鐩は家族を連れて中州の洲に隠れたが、賊がこれを陸に追い立て、その妻女を辱めようとした。鐩はもとより驍健で膂力があり、素手で賊二人を打ち殺した。賊は寄り集まってこれを捕らえ、ついにその一味に入って首領となった。
  • 賊はもっぱら淫乱と掠奪を事としていたが、鐩はいくらか知恵と計略があり、部伍を定め、その一味にみだりに殺すなと勧め、府縣に檄を移して、官吏や儒者は逃げ隠れせず、迎える者は安堵すると約した。これによって中原を横行し、勢いは劉六らの上に出た。かつて鈞州を五日攻めたが、馬文升がちょうど郷里にいたので、これを見逃して去った。
  • 役所が人を遣わして招撫の榜を届けたとき、鐩は疏を具して付けて奏し、「いま群がる奸臣が朝廷にあって神器を弄び、天下を濁し乱し、諫める臣を誅し、元老を退けている。挙措がこのようであって国を亡ぼさなかった例はない。陛下の英明なご決断で群奸の首を梟して天下に謝していただきたい。それがなされれば、ただちに臣の首を梟して群奸に謝そう」と言った。その狡猾さはこのようであった。

仇鉞(続)――劉七の平定と晩年

  • 鉞は河南の賊を平らげると師を移し、陸完と合流して江北で劉七らをともに滅ぼした。功を論じて世襲の侯に進み、禄百石を増され、なお三千營を督した。
  • 正德八年(1513年)、大同に警急があり、總兵官として京軍を統べて防がせた。鉞は五箇条を上奏したが、なかでも京師で調練している辺軍を返し、京軍の出征を止めて公私の煩わしさを省くよう請うたのが、時弊に最も切実であった。だが当時これを用いることができなかった。
  • 鉞が到着すると、折しも寇が萬全の沙河を犯したので撃ち、首級三つを斬ったが、軍士で死んだ者が二十餘人あり、寇もまた引き去った。勝報を奏して賜与を受けたので、朝廷の議はこれを恥とした。
  • 帝が諸辺の將に豹房へ入侍せよと詔したとき、鉞は一度だけ入ったが、その後はつねに固辞した。正德十年(1515年)冬、病と称して営務を解かれ、詔して軍三十人を与えてその家で使役させた。
  • 世宗が立つと再び起用されて三千營を督し、前府の事を掌ることになったが、着任せぬうちに卒した。年五十七、諡は武襄。子の昌は病で廃され、孫の鸞が侯を嗣いだが、世宗のとき寵をたのんで辺の外と通じ、磔にされて死に、爵は除かれた。

神英――劉瑾に取り入って伯となる

  • 神英は字を景賢といい、壽州の人。天順の初めに父の職を襲いで延安衞指揮使となり、寧塞營を守備し、たびたび騎兵を率いて都督の張欽らに従って征討し功があった。
  • 成化元年(1465年)、尚書の王復が辺を巡ったとき、英に謀と勇があると推薦し、都指揮僉事に進んだ。滿四の征討に従った功で都指揮使に遷り、延綏右參將となった。たびたびキャジャセリン(伽嘉色凌)の兵を破り、署都督僉事に進んだ。巡撫の余子俊が邊牆を築いたとき、英に工事を監督させ、完成して賜与を受けた。
  • 久しくして總兵官として寧夏に鎮守し、延綏に移り、また宣府に移った。弘治と改元されると大同に移った。
  • 弘治十一年(1498年)、馬市が開かれたとき、英は禁を犯して交易し、寇が蔚州を掠めたときもまた救わなかった。言官が続けて弾劾し、召還されて閒住となった。まもなく起用されて果勇營を督した。かつて右參將として朱暉に従い延綏で寇を防いだ。
  • 武宗が即位すると寇が宣府を犯したので、李俊と並んで挙げられ、左參將として京軍を率いて援けた。まもなく都督同知として左府の僉書となり、畿内近くの手ごわい賊を討ち、右都督に進んだ。
  • 正德五年(1510年)、給事中の段豸が英は老いていると弾劾し、致仕を命じられた。このとき劉瑾が政をほしいままにし、總兵官の曹雄らは瑾に付いて重い権を得ていた。英はもとより瑾と親しく、厚く賄賂を贈ったうえで、自ら辺功を述べて叙録を願った。特に詔して伯爵を与えることになり、吏部・兵部はこれに反対して廷議に下したが、廷臣は瑾の意を迎えて封ずるべきでないと言う者がなく、ついに涇陽伯に封じられ、禄八百石を与えられた。
  • まもなく寘鐇が反し、總兵官として討つよう命じられたが、到着せぬうちに賊はすでに滅んでいた。その秋、瑾が失脚すると言官に弾劾され、詔して爵を奪われ、右都督として致仕した。二年を越えて卒した。

神周(附伝)――江彬に依って誅される

  • 子の周は粟を納めて指揮僉事となり、累進して都指揮使となり、延綏右參將となった。正德六年(1511年)、その部下の兵で河南の流賊を討つよう命じられ、たびたび功があり、再び都督同知に進んだ。賊が平らぐと副總兵として山西に鎮した。
  • 正德九年(1514年)秋、寇が大挙して寧武關に入り、忻・定襄・寧化を蹂躙したが、周は兵を擁して戦わず、軍民の死者は数千に及んだ。詔して巡撫官に捕らえて京師へ送らせたが、周はひそかに貴顕に取り入り、易州まで来て病と偽り、自ら戦功を述べた。帝はそこで周の罪を宥し、その官階をすべて削って総旗としたが、粟を納めて得た指揮の職はもとのままとした。
  • のち江彬に取り入って豹房に入り、にわかに都督に復し、国姓を賜り、宮中で兵を司った。そこで彬と互いに寄り合って勢いを張り、賄賂を受けること計り知れなかった。彬が失脚すると周もまた獄に下されて誅に伏した。

曹雄――劉瑾に附いた固原の総兵

  • 曹雄は西安左衞の人。弘治の末に都指揮僉事を歴任し、延綏副總兵となった。武宗が即位すると總督の楊一清の推薦で署都督僉事に抜擢され、總兵官として固原に鎮した。劉瑾と同郷であることから瑾に取り入り、瑾は広く党を植えようとしていたので、日ごとに親しみ重んじた。
  • 正德四年(1509年)、雄は上言して、旧例では布政司・按察司の二司および兵備道の臣が總兵官に送る公文はみな都司を経由するが、いま辺務は急を要し徴発は時を選ばず、都司は遠く省城にあって往復千里なので軍機を誤る恐れがある、大同巡撫の例にならって直接總兵官に呈するようにしたい、と言った。兵部尚書の曹元は瑾の意を迎えてその言のとおりに覆奏した。
  • のちまた瑾の依頼を受けて、雄の鎮守は印を帯びていないので各辺の例にならって特に印を賜ってその権を重くすべきだと奏した。そこで雄を署都督同知に進め、延綏總兵官の吳江が帯びていた征西將軍の印を雄に帯びさせ、別に靖虜將軍の印を作って江に与えた。
  • 總督の才寬が沙窩で寇を防いで殺されたとき、雄は兵を擁して救わず、うわべは罪を引いて兵権を解くよう願い、子の謐に上奏文を持たせて京師へ遣わした。瑾は謐の容貌を非凡として姪の娘を妻とし、優詔をもって雄を褒め、職を従前どおりとし、糾弾した者はかえって責められた。
  • 寘鐇が寧夏で反したとき、雄は変を聞くとただちに兵を統べて境に迫り、都指揮の黄正に兵三千で靈州に入らせて士卒の心を固めさせ、隣境と期日を定めて討つことを約し、ひそかに大小二つの壩の積み草を焼き、守備の史鏞らとともに河西の船を奪ってすべて東岸に泊めた。賊の一味の何錦は恐れ、急ぎ兵を率いて大壩に出て守り、堤を切られるのを防いだ。雄はそこで鏞にひそかに仇鉞へ書を通じさせ、内から事を起こさせた。賊はついに捕らえられた。
  • この戦役は、功は鉞に成ったとはいえ、外から布置して賊が内を顧みる余裕を与えなかった点では雄にも功労があった。勝報が届くと、瑾は賊を平らげた功を雄に帰し、左都督に進め、謐もまた千戸となった。雄は落ち着かず、罪を引いて自ら弾劾し、功を諸將に譲ったが、旨を下して慰労された。
  • まもなく瑾が失脚すると言官がかわるがわる弾劾し、指揮僉事に降された。まもなく召し出されて獄に下され、逆党として死罪に論じられ、その家は籍没された。詔して宥され、家族とともに海南に永く戍られ、赦に遇っても許されなかった。

曹謙(附伝)――曹雄の長子

  • 雄の長子である謙は書を読んで文をよくし、機略があり、施し与えることを好んだ。もと參政の李崙、主事の孔琦の家が甚だ貧しかったとき、雄が願い出てその妻子を周恤し、廉吏を励ましたのは謙の考えである。御史の高蔭が先に逮捕され旅費がなかったとき、謙が旅装を整えてやり、あわせてその家を恤んだ。
  • 楊一清に学んでいたが、一清が起用されようとしていると聞くと、書を贈って止め、「近ごろ関中の人材が連なって起っているのは、まことに山川の不幸です。三人五人だけでも後日のために残しておかれてはいかがですか」と言った。当時、陝西の人はおおむね瑾に付いて立身していたので、謙はこう言ったのである。
  • 雄が獄に下されると謙もまた繋がれ、恨みを持つ者に鞭打たれて死んだ。

馮禎――洛南に戦死す

  • 馮禎は綏德衞の人。卒伍から身を起こし、功を重ねて本衞の指揮僉事となった。弘治の末に署都指揮僉事に抜擢されて偏頭關を守備し、まもなく參將として寧夏西路を分守し、勇敢さで知られた。寘鐇が反すると馳せ奏して変を告げ、事が平らぐと署都指揮同知に進み、のち副總兵に抜擢されて延綏を協守した。
  • 正德六年(1511年)七月、盜が中原に起こり、詔して部下千五百人を率いて討たせた。阜城に至って賊に遭い、禎は軍中に首級と鹵獲を貪って気を取られてはならぬと命じたので、大いに賊を破り、北へ数十里追撃し、俘斬八百六十餘であった。進んで曹州の囲みを解き、その首領の朱諒を捕らえ、功を録して都督僉事に進んだ。
  • 翌年春、劉惠と趙鐩が河南で乱を起こし、続けて鹿邑・上蔡・西平・遂平・舞陽・葉を陥れ、ほしいままに南頓・新蔡・商水・襄城を掠め、また戻って西平に駐した。禎は副總兵の時源、參將の神周・金輔とともにこれを撃ち破った。賊が城に逃げ込むと、官軍はその門を塞ぎ、夜に乗じて焼き、死者千餘人、斬首も同じほどであった。残る賊は潰えて西へ向かった。
  • 巡撫の鄧璋らが汝寧で崇王に拝謁し、宴飲すること連日に及ぶ間に、賊は散った者を呼び集めて勢いが再び盛んになり、鄢陵・滎陽・汜水・鞏を陥れ、河南府を三日囲んだところで諸軍がようやく集まった。
  • 賊は洛南に屯し、官軍が飢え疲れているのを見て迎え撃った。右哨の金輔は洛水を渡ろうとせず、禎と源と周が陣を布いたところ、後哨の參將である姚信の部下の京軍が先に馳せて敗れ、あわてて逃げたので陣が乱れ、賊がこれに乗じた。禎は馬を下りて決死の戦いをしたが、援軍が絶えてそこで死んだ。
  • 洛南伯を贈られ、祭葬を賜り、その子の大金に都督僉事を授けた。のち賊が平らぐと功を論じてさらに一子を世襲の百戸に廕せられた。
  • 翌年のこの日、禎が死んだ場所で砂塵の嵐が大いに起こり、さらに翌年も同じであった。伊王が奏聞し、敕して役所に祠を建てさせ、毎年その死んだ日に祭を行わせた。まもなく給事中の李鐸の言によって、毎年米二石と帛二疋を与えてその家を養わせた。

張俊――大同・宣府の総兵

  • 張俊は宣府前衞の人。世職を嗣いで本衞の指揮使となり、累進して大同遊撃將軍に抜擢された。
  • 弘治十二年(1499年)、功によって都指揮同知に進んだ。ホショ(和碩)が大同左衞に入って八日にわたり大いに掠めた。俊は兵三百を遣わしてその前を邀撃させ、また兵三百を分けて策応とし、自ら荊東莊で防ぎ、河に沿って営を結び、三萬餘騎を撃ち退けた。帝は大いに喜び、ただちに都督僉事に抜擢した。
  • まもなく總兵官の王璽が失態で召し出されたので、俊に代わらせた。その冬、寇の侵入を許して戴罪となり、まもなく宣府に移鎮した。
  • 中官の苗逵が延綏で師を督し、大同・宣府の卒を斥候の騎兵に出すよう檄したが、俊は反対して従わなかった。逵はそこで俊を弾劾した。帝は俊を宥したが、卒を出すことは逵の言のとおり命じた。
  • 武宗が即位した初め、寇が国喪に乗じて大挙して侵入し、陣営を連ねること二十餘里に及んだ。俊は諸將の李稽・白玉・張宏・王鎮・穆榮にそれぞれ三千人を率いさせて要害を分け守らせた。ほどなく寇が新開口から垣を毀して入り、稽はあわてて前へ出て敵を迎え、玉・雄(宏)・鎮・榮はそれぞれ部下を率いて虞臺嶺で防いだ。
  • 俊は急ぎ三千人を率いて救援に赴いたが、道中で足を負傷したので、兵を都指揮の曹泰に属させた。泰は鹿角山に至って包囲された。俊は病を押してさらに兵五千人を調え、三日分の糧を持たせて馳せ、泰の囲みを解き、また鎮を救い出し、さらに兵を分けて稽と玉を救った。稽と玉も囲みを破って出たが、雄(宏)と榮だけは山と谷に阻まれ援けが絶えて死んだ。
  • 諸軍はすでに甚だ困憊しており、兵を収めて還ったが、寇が追ってきたので行きながら戦い、かろうじて萬全右衞城に入ることができた。士馬の死亡は数えきれなかった。俊および中官の劉清、巡撫の李進はみな召還された。御史の郭東山が、俊は病を押して馳せ援けたのだから、褒めることと懲らすことを一方だけにするのはよくないと言い、贖罪を許された。
  • 正德五年(1510年)、起用されて署都督同知となり、神威營の調練を司った。
  • 翌年六月、賊の楊虎らが山西の十八盤から戻って武安を破り、威・曲周・武城・清河・故城・景州を掠め、転じて文安に入って劉六らと合流した。都指揮の柔玉がたびたび敗れ、僉事の許承芳が援軍を請うたので、俊を副總兵として參將の王琮とともに京軍千人を統べて討たせた。畿内近くを数か月行き来したが賊を痛めつけられなかった。のち朝議で辺軍を調して協守させると、賊は続けて敗れた。
  • 翌年三月、劉六・劉七・齊彦名・龐文宣らが敗れて登萊の海套へ逃げた。陸完は俊の軍に萊州へ移るよう檄し、諸將の李鋐らと合流して邀撃させた。賊は北へ走り、寶坻・香河・玉田を転々と掠めたので、俊は急ぎ許泰・郤永とともに防ぎ止めた。帝は喜んで白金を賜って労った。賊は武清から西へ去った。
  • まもなく病を得て召還された。のち賊が平らぐと都督同知を実授された。久しくして卒した。俊は辺將として廉直を守り、謀と勇があった。その歿したとき、家に余財はなかった。

李鋐(附伝)――江西の賊を討つ

  • 李鋐は大同右衞の人。代々指揮同知を襲いだ。功を重ねて都指揮僉事に進み、參將として大同を協守した。山東に盜が起こると、詔して遊撃將軍に改められ、まもなく副總兵として俊らとともに賊を邀撃し、また劉暉の部將である傅鎧・張椿らとともにたびたび功を立てた。
  • 賊が平らぐと都指揮同知に進み、總兵官として鳳陽などの諸府に鎮した。まもなく江西の盜が猖獗をきわめたので、署都督僉事に抜擢され、都御史の俞諫とともに軍務を提督した。
  • 賊の王浩八が裴源山に拠り、高い所から矢や石を放ったので官軍はほとんど支えられなかった。鋐は馬を下り刀を持って將士を督し、決死の戦いをしたので賊は逃げた。数十里追ってこれを捕らえ、続いて劉昌三・胡浩三らを討ち平らげた。餘干に移駐し、まだ降っていない残りの賊を撃とうとしたところ、背に疽を発して軍中で卒した。詔して右都督を贈られ、子は都指揮僉事に廕せられた。

楊鋭――安慶を守って宸濠を阻む

  • 楊鋭は字を進之といい、蕭縣の人。世職を嗣いで南京羽林前衞指揮使となった。正德の初め、才によって龍江右衞の事を掌ることに抜擢され、淮安で漕船の造営を監督した。
  • 寧王宸濠に異心があったので、王瓊は安慶が要害の地であるから守備を置くべきだとし、鋭を署都指揮僉事に進めてその地を守備させた。鋭は知府の張文錦とともに戦艦を整え、日々兵を督して水戦を習わせた。
  • 正德十四年(1519年)六月丙子、宸濠が反して東へ下り、鼓澤・湖口・望江を焼いた。己丑、にわかに安慶城下に至り、舟は五十餘艘であった。鋭・文錦は指揮の崔文、同知の林有禄、通判の何景暘、懷寧知縣の王誥らとともに江辺でこれを防いだが、のち兵を収めて入城し、包囲された。
  • 鋭と文は城の西に、文錦と有禄は城の北に、景暘と誥は東南に陣した。城の西がとりわけ要衝であり、鋭は昼夜拒み戦い、賊二百餘を殺傷し、その間諜を斬ったので、賊はやや退いた。
  • 七月丁酉、賊は全兵を挙げて至り、十萬と号し、船が連なること六十餘里に及んだ。宸濠は黄色い艦に乗って黄石磯に泊まり、自ら戦いを督した。
  • 江西僉事の潘鵬が賊軍にいた。安慶の人であったので、宸濠は降伏を諭させた。鵬が鋭と文錦の名を呼んで語ると、人心はかなり動揺した。黄洲という吏が大義をもってこれを責め立てたので、鵬は恥じて退いた。のちまた偽の檄を持って来たとき、その家の下男が見かけて遠くから呼びかけたので、鋭はこれを腰斬してさらし、鵬を射ようとしたが鵬は逃げ去り、人心はようやく定まった。
  • 賊は怒って城を幾重にも囲み、攻めはいよいよ急となったが、鋭らは決死の戦いをした。賊は雲樓を数十作って城中を見下ろしたので、城中もまた飛樓を作って賊を射、夜に人を綱で降ろして賊の樓を焼いた。
  • 賊は天梯を作った。幅二丈、高さは城壁より高く、坂で覆い、前後に門があって兵を中に伏せ、車輪で転がして城に迫らせた。城上では葦を束ねて油を注ぎ、その先端に火をつけ、梯がやや近づくとこれを投げたので、たちまち焼き尽くされ、賊に死者が多く出た。
  • 当時、軍衞の卒は百に満たず、城に上ったのはみな民兵と老弱、女までが兵糧を運び、一人が石を一つ二つ運んで、数日で山のように積み上がった。賊が城を攻めると、城上から石を投げ、あるいは煮え湯を注いだので、賊はそのたびに傷ついた。
  • 鋭らは賊の陣営へ書を射込んで解散するよう諭し、逃げ去る者も出た。そこで決死の士を募って夜に賊営を襲わせ、賊は大いに驚き騒ぎ、明け方になってようやく落ち着いた。宸濠は恥じ憤って部下に「安慶さえ落とせぬのに、どうして南都を望めようか」と言った。
  • 折しも伍文定らが南昌を破ったと聞き、ついに囲みを解いて去った。文が城を出て追撃し、また破った。十八日にして囲みは解けた。
  • 事が奏聞されると武宗は大いに喜び、鋭を參將に抜擢して安慶・徽州・池州・太平・寧國および九江・饒州・南康の各府を分守させた。鋭は鄭岳と胡世寧を推薦し、帝はただちに召し用いた。
  • 世宗が立つと功を論じて都督僉事に抜擢され、子を世襲の千戸に廕せられた。再び遷って左府の僉書となり、南京右府に改められ、總兵官として遼東に鎮し、のち漕運を督して淮安に鎮した。嘉靖十年(1531年)、巡按御史の李循義に弾劾されて罷められ、翌年に卒した。

崔文(附伝)――安慶衞の守城

  • 崔文は代々安慶衞の指揮使であった。城を守った功労は鋭に次ぐ。世宗はその功を録し、三階を越えて都指揮使とし、子を世襲の百戸に廕せた。
  • 江・淮に盜が多かったので、廷議で總兵官を置いて上下の江防を督させることとなり、文を都督僉事に抜擢してこれに任じた。のち南京前府に臨むよう改められ、もっぱら操江を督した。久しくして卒した。

史論

  • 贊に言う。衞青らは太平の世に当たって、不逞の輩がひそかに事を起こし諸城が騒然としたとき、その平定を頼まれた者である。相手にした敵は手ごわいものではなかったとはいえ、勇敢に力戦して記すべき功が多い。あるいはそのまま野に屍をさらした者もある。何洪・劉雄・馮禎の輩の壮烈な節義は惜しむに足りる。鉞は知略をめぐらして乱を鎮め、鋭は籠城によって逆賊を挫き、干城の任にふさわしく朝廷の謀にこたえた。神英と曹雄にも功績はあったが、宦官に付いて名を損ない、しかも罪を得た。将たる者は、放縦を戒めとすべきであろう。