明史卷一百六十八 列傳第五十六 萬安

宦官・万貴妃と結ぶ

  • 萬安は字を循吉といい、眉州の人。背が高く堂々とした顔立ちで、眉目は彫ったように整い、外は寛やかだが内は深かった。正統十三年(1448年)の進士で、庶吉士に改められ、編修に任じられた。成化の初め、たびたび遷って禮部左侍郎となった。
  • 成化五年(1469年)、翰林學士を兼ねて内閣に入り機務に参与するよう命じられた。同年の合格者である詹事の李泰は中官の永昌の養子で、萬安より年少であったが、萬安は兄として仕えてその歓心を得ていた。同官となってからは、昇進のたびに必ず萬安を自分より上に推した。このときも閣臣を選ぶ議で李泰はまた萬安を推し、「君が先に行きたまえ。私は行き着けぬことを心配してはいない」と言った。それゆえ萬安は入閣でき、李泰はにわかに急病で死んだ。
  • 萬安は学問がなく、権を握ってからは日々請託を事とし、諸宦官と結んで内応とした。当時、萬貴妃の寵は後宮に冠たるものがあり、萬安は内侍を通じて殷勤を尽くし、自ら子姪の輩と称した。貴妃はかねて門閥のないことを恥じていたので、これを聞いて大いに喜んだ。貴妃の弟である錦衣指揮の萬通は、そこで同族としてたびたび萬安の家に出入りするようになった。
  • 萬安の妻の王氏には、博興から来た母がいた。王氏が母に「以前、家が貧しかったころ、妹を人の側室にやったが、今どこにいるか」と尋ねると、母は「ただ四川の萬編修という人のところだと覚えている」と答えた。萬通は内心それが萬安だと疑い、訪ねてみると、果たして萬安の側室であった。これにより両家の婦人は日々行き来し、萬通の妻は禁中に籍を置いて自由に出入りしたので、萬安は宮中の動静をつぶさに知ることができ、いよいよ地位を固めた。
  • 侍郎の邢讓、祭酒の陳鑑は萬安と同年であったが折り合わなかったので、萬安は獄を構えて二人の名を籍から除いた。

「万歳閣老」

  • 成化七年(1471年)冬、彗星が天田に現れ太微を犯した。廷臣の多くは「君臣が隔たっている。折々に大臣を召して政を議すべきだ」と言い、大學士の彭時・商輅が強く請うた。司禮の中官はそこで「御殿の日に召見する」と約したが、そのうえで「初めての謁見で気持ちが通じていないから、多くを言うな。しばらく後日を待て」と言った。参内しようとする際にも初めと同じ約束を繰り返した。
  • 謁見に及んで彭時が「天変は畏るべきです」と言うと、帝は「分かっている。卿らは心を尽くせ」と言った。彭時がさらに「昨日、御史の上疏で京官の俸給を減らすよう請うたものがありますが、武臣は不満を免れません。従来どおりが便宜かと存じます」と言い、帝はこれを可とした。すると萬安はすかさず頓首して「万歳」と唱え、退出しようとした。彭時と商輅はやむを得ず、そろって叩頭して退いた。
  • 中官が朝士をからかって「お前たちはいつも召見されないと言うが、召見されたところで万歳を唱えることしか知らぬではないか」と言い、当時これが笑い話として伝わり、「萬歳閣老」と呼ばれた。帝はこれ以後、二度と大臣を召見しなくなった。
  • のちに尹直が入閣して帝に謁して事を計りたいと願ったとき、萬安はこれを止めて言った。「以前、彭公が召対を請うたが、一言が合わないとすぐ叩頭して万歳を唱え、それで笑い者になった。いま我らは事あるごとに言い尽くし、太監が選んで奏聞してくれるから、上が許さぬことはない。面と向かって話すよりずっとよい」。萬安が迎合して大体をわきまえず、しかも過ちを人に帰するのが上手であったのは、このようであった。
  • 成化九年(1473年)、禮部尚書に進み、久しくして户部に改められた。成化十三年(1477年)、太子少保を加えられ、まもなく文淵閣大學士に改められた。孝宗が出閣(東宮教育の開始)すると吏部尚書・謹身殿大學士に進み、まもなく太子太保を加えられた。
  • 当時、彭時はすでに没し、商輅は汪直に逆らって去っており、内閣にいたのは劉珝と劉吉で、萬安が首輔であった。萬安は南方出身者と党を組み、劉珝は尚書の尹旻・王越とともに北方出身者の党をなして互いに傾け合った。しかし劉珝は浅く、萬安は深く陰険であったので、劉珝はついに勝てなかった。
  • 成化十八年(1482年)、汪直の寵が衰えると、言官が西厰の廃止を請うたが帝は許さなかった。萬安が上疏して重ねて言上したので可とされ、内外はこれによってかなり萬安を称えた。
  • 『文華大訓』が完成すると太子太傅・華葢殿大學士に進み、さらに少傅・太子太師に進み、また少師に進んだ。

房中術の露見と失脚

  • このころ朝廷には失政が多く、四方から災害の報が日々届いた。帝は道教を崇信し、金闕・玉闕の真君を上帝に封じ、萬安を遣わして靈濟宮で祭らせた。李孜省・鄧常恩が用いられつつあったので、萬安は彭華を介してひそかに彼らと結び、それを頼りに異己を排斥した。こうして劉珝および王恕・馬文升・秦紘・耿裕ら諸大臣が相次いで追われ、彭華は詹事から吏部侍郎に遷って内閣に入り、朝臣で萬安に逆らう者はいなくなった。
  • 彭華は安福の人で、大學士彭時の族弟。景泰五年(1454年)の會試首席。峻厳で計略が多く、ひそかに人の短所を窺うのが得意で、萬安・李孜省と結んだ。かつて蕭彦莊をそそのかして李秉を攻めさせ、また尹旻・羅璟を追い出したので、人はみな憎み恐れた。一年あまりして中風にかかって去った。
  • 孝宗が位を嗣ぐと、萬安は登極の詔書を起草し、言官が風聞にかこつけて私心を挟むことを禁じたので、内外が騒然とした。御史の楊鼐が閣に赴くと、萬安は落ち着いて「これは中(帝)の意向だ」と言った。楊鼐はただちにその言葉を奏聞し、「萬安は言路を塞ぎ、過ちを君に帰しており、人臣の礼がない」と述べた。そこで庶吉士の鄒智、御史の文貴・姜洪らが続けざまに上章してその罪状を列挙した。
  • これより先、歙の人である倪進賢という者は、書を少しばかり知るだけの品行のない人物で、萬安に諂って日々房中術を語り、萬安はこれを寵愛した。そこで受験させて進士に及第させ、庶吉士に任じ、御史に除した。
  • 帝はある日、宮中で上疏を入れた小箱を見つけたが、いずれも房中術を論じたもので、末尾に「臣安進る」と署してあった。帝は太監の懷恩に持たせて閣に赴かせ、「これが大臣のすることか」と言わせた。萬安は恥じて汗をかき、地に伏して声も出なかった。諸臣の弾劾文が届くと、また懷恩に萬安の前で読み上げさせた。萬安は幾度も跪いては立ち、哀れみを乞うて去る気配がなかった。懷恩がまっすぐ進み出てその牙牌(身分証)をむしり取り、「もう出て行ってよいぞ」と言うと、ようやく慌てふためいて馬を求め邸に帰り、休職を願い出て去った。当時すでに七十餘歳であったが、なお道すがら三台星を仰いで再度の登用を期待した。一年ののち卒し、太師を贈られ、諡を文康とされた。
  • はじめ孝穆皇太后が薨じたとき、内庭では萬貴妃の仕業だと取り沙汰されていた。孝宗が立つと、魚臺縣丞の徐頊が上書してその事を暴き、廷臣は萬氏の親族で宮中に出入りしていた者を逮えて訊問するよう議した。萬安は驚き恐れてどうしてよいか分からず、「わしは長らく萬氏と行き来していない」と言った。劉吉ももともと萬氏と姻戚であったので自らを危ぶみ、その一党の尹直がまだ閣にいたので、ともに詔旨を擬してこの件を握りつぶした。孝宗は仁厚でもあり不問に付したので、萬安と劉吉は無事であった。
  • 萬安は政府に二十年在り、試験のたびに必ず自分の門生を考官にしたので、子・孫・甥・婿で及第する者が多かった。子の翼は南京禮部侍郎、孫の𢎞璧は翰林編修となった。萬安が死んで間もなく、翼と𢎞璧が相次いで死に、萬安はついに後嗣がなかった。