明史卷一百六十五 列傳第五十三 王得仁

出自と汀州での治績

  • 王得仁は名を仁といい、字の得仁で通った。新建の人である。もと謝姓であったが、父が仇を避けて母方に身を寄せたので王氏を名乗った。得仁は五歳で母を失い、大人のように哀号した。
  • はじめ衛の吏となり、才によって推薦されて汀州府經歴を授かった。廉潔有能で勤勉機敏であったので、上下に愛された。任期満ちて遷るはずのとき、軍民数千人が留任を乞うたので、詔で秩を増して再任させた。三年いて推官が欠けたので、英宗は軍民の請いに従って、そのまま昇進させた。
  • たびたび冤獄を明らかにし、贈り物を退け、鎮守内臣の過酷な要求を抑えたので、政績はいよいよ著しくなった。

沙県の賊との戦いと死

  • 沙縣の賊・陳政景はもと鄧茂七の一味で、清流の賊・藍得隆らを糾合して城を攻めた。得仁は守将および知府の劉能とともにこれを撃ち破り、政景ら八十四人を捕らえたので、残る賊は驚いて潰えた。
  • 諸将が徹底捜索を議したが、得仁は無辜の百姓に及ぶのを恐れ、令を下して招撫し、難民三百人を選び分けて釈放した。都指揮の馬雄が賊に通じた者の姓名を手に入れ、名簿によって処刑しようとしたので、得仁は力を尽くしてその名簿を焼くよう請うた。
  • 賊がまた寧化を侵したので、兵を率いて救援に赴き、多数を斬首した。民の多くが自ら抜け出して帰り、賊の勢いはいよいよ衰えた。
  • 賊が退いて將樂に屯したので、得仁は追って滅ぼそうとしたが、にわかに病を得た。衆が輿で連れ帰って治療させようとしたが、得仁は承知せず、「私が一度でも動けば賊は必ず長駆する」と言い、起きて帳中に座り、将吏に力を尽くして賊を平らげよと諭して、そのまま卒した。正統十四年(1449年)夏のことである。
  • 軍民は哀しみ慟哭し、柩が帰るときは哭して奠を供える者が道々に連なり、多くがその像を描いて祀った。天順末、吏民が祠の建立を乞い、有司がこれを申請したので、詔により廣東の楊信民の先例にならって春秋に祭を行うことになった。

附・子の一䕫

  • 子の一䕫は天順四年(1460年)の進士第一で、修撰を授かり、左諭德に進んだ。
  • 成化七年(1471年)、彗星が現れたので、詔に応えて五事を陳べ、宮中を正すこと、大臣に親しむこと、言路を開くこと、刑獄を慎むこと、無駄な費えを戒めることを請うた。言葉はきわめて痛切であったので、㫖を受けて厳しく責められた。
  • 累進して工部尚書となり、卒して太保少保を贈られた。正德年間に文莊と諡された。