明史卷一百六十五 列傳第五十三 陳敏

茂州の治

  • 陳敏は陝西華亭の人である。宣德の時、四川茂州の知州であったが喪に遭って官を去った。管下の諸長官司および番民百八十人が闕に赴いて奏し、「州は辺境の万山の中に僻在し、松潘・疊溪の諸番と隣り合って毎年その害を被ってきた。敏が州に赴任してから撫御に方法を得て、民は安んじて生業についた。今、憂いによって職を去られ、軍民は頼るところを失った。どうか遠方を憐れんでこの良牧を返されたい」と言った。帝はただちに許可した。
  • 正統年間、九年の任期が満ちたときも軍民があらためて留任を願い出た。成都府同知に進んで茂州の事を見た。都司の徐甫が、敏および指揮の孫敬は在職中に公平勤勉で諸番が信服していると言い、章は都御史の王翺らに下されて事実が確かめられ、敏は右參議に進んで、なお州の事を見た。監司の位で州に臨むのは、これ以前に例がない。
  • 黒虎寨の番人が近境を掠め、官軍に捕らえられたとき、敏はその習俗に従って誓わせたうえで帰した。ところがまた出て掠めたので、巡按御史の陳員韜に弾劾されたが、詔で赦された。
  • 提督都御史の冦深がその才を認め、「敏は往来して番人を撫恤し軍政を助けている。別に知州を任じて敏を専ら軍務に当たらせたい」と言った。吏部は、敏は茂州に長く在任しているから、別に任じても番人の事情に通じておらず、にわかには馴致しがたいとして、同知一人を増設して補佐させるべきだとし、許された。
  • 敏は參議として州を治めていたので、その体面は監司に並んだ。そこで按察使の陳泰が理由なく番人を杖殺したことを弾劾した。泰も敏を告発したが、帝は問わず、泰が下獄して罪を論じられた。
  • 景泰改元(1450年)、參議として九年が満ち、右參政に進み、州の事を見ることは前と同じであった。州に臨むこと二十余年、威信が大いに行われ、番民はこぞって喜んだ。しかし官の秩がしだいに高くなり、諸監司や郡守がかえってその下に位することになったので、同僚には嫌う者が多く、按察使の張淑に弾劾されて罷免され去った。