明史卷一百六十三 列傳第五十一 邢讓

出自と景泰の上疏

  • 邢讓は字を遜之といい、襄陵の人である。十八歳で郷試に及第し、國子監に入って李時勉に器量を認められ、劉珝と名を並べた。正統十三年(1448年)の進士に及第し、庶吉士に改まって檢討を授かった。
  • 景㤗元年(1450年)、李實が衛拉特から帰り、再び使者を遣わして上皇を迎えることを請うたが、景帝は許さなかった。讓は上疏して次のように言った。上皇は陛下にとって君の義があり兄の恩がある。迎えぬわけにはいかない。しかも敵に大義を借りて我が方を問い詰める口実を与えれば、何と答えるのか。群臣の請いに従い、あらためて實に敇を持たせて遣わし、迎え復す意を述べさせるべきである。上皇が還るかどうかは定かでなくとも、陛下の恩義の篤さは天下に明らかになる。万一、迎えに行って許されなければ、こちらは彼を責める筋が立ち、問罪の師を興すことができる。それでよいではないか。
  • 疏が入ると、帝は言葉を尽くして諭し解いた。

祭酒と失脚

  • 天順末、父の憂いで帰郷したが、喪を終えぬうちに起用されて英宗實録を修め、修撰に進んだ。成化二年(1466年)、抜擢されて國子祭酒となった。
  • 慈懿太后が崩じ、祔廟の礼が議されたとき、讓は僚属を率いて疏諫した。両京の國學の教官は先例として昇進できなかったので、讓らはこれを申し立て、科挙出身の者は考課満ちれば銓叙を得られるようになった。
  • 讓は太學においても師道をもって自ら任じ、辟雍通志を修め、諸生に小學と諸經を誦えさせ、密告の弊風を厳しく懲らした。当時これで称賛されたが、そしる者も多かった。人となりは才を恃んで度量が狭く、軽重の判断がすぐ言葉と顔色に出たので、地位を争う者の多くが嫌った。
  • 成化五年(1469年)、禮部右侍郎に抜擢された。二年を越えた成化七年(1471年)、国子監在任中の㑹饌の金銭の件で、後任の祭酒陳鑑・司業張業・典籍王允らとともに罪を得て死罪に当てられた。諸生が闕下に訴えて身代わりを請い、あらためて廷臣に合議で審理させる詔が下ったが、結局死罪と定められ、贖罪して庶民に落とされた。

附・李紹

  • 陳鑑が罪を得たのち、吏部尚書の姚䕫は、致仕していた禮部侍郎の李紹を起こして祭酒にすることを請い、早馬で召したが、紹はすでに卒していた。
  • 紹は字を克述といい、安福の人である。宣德八年(1433年)の進士で、庶吉士に改まり檢討を授かった。大學士の楊士竒が病臥したとき、英宗が使いを遣わして人材を尋ねると、士竒は紹ら五人を挙げて答えた。
  • 土木の敗(1449年)で京師に戒厳が敷かれ、朝士の多くが家族を南へ避難させたが、紹は「主が辱められれば臣は死ぬ。家など何になろう」と言って避難させなかった。
  • 累進して翰林學士となり、李賢・王翺の推薦で禮部侍郎に抜擢された。成化二年(1466年)、病を理由に辞職を求めた。紹は学問を好み、官にあっては剛正で度量があり、後進をよく引き立てた。その死に際して帝は深く惜しんだ。