出自と修史
- 陳敬宗は字を光世といい、慈谿の人である。永樂二年(1404年)の進士で、庶吉士に選ばれて文淵閣で学問を進め、永樂大典の編修に加わった。書が成ると刑部主事を授かり、さらに五經四書大全の編修、太祖實録の再修に加わって翰林侍講を授かった。
- 母の喪で帰郷し、宣徳元年(1426年)に起用されて兩朝實録を修め、翌年(1427年)に南京國子監司業に転じた。帝は「侍講は清華の選、司業は師儒の席である。位は高くないが任は重い」と諭した。
- 宣徳九年(1434年)に秩満ちて祭酒に遷った。
正統の上書
- 正統三年(1438年)、上書して次のように言った。旧制では諸生は在監の長短によって諸司に送って厯事させたが、近ごろは事情があって休暇を得た者が何年も引き延ばし、撥送の期になってようやく赴くありさまで、これは奸惰を助長する。肄業の多寡を順序の基準とすべきである。また近ごろ雑職に就くことを願い出る例があり、士風が卑しくなっているのは些細な事ではないから禁止を加えられたい。帝はこれに従った。
師道と人柄
- 敬宗は鬚髯が美しく容儀が端正で、歩みにも定まった則があった。師道をもって自ら任じ、教条を立てて陋習を改めた。六館の士千余人は、昇堂して聴講し、饌を設けて会食するさまが朝廷のように整粛で、少しでも容儀を失えばただちに堂下で待罪させた。
- 僚属はその厳しさを恐れ、他の事にかこつけて法司に訴えた。周忱は敬宗と親しく、「上疏して自ら弁明したらどうか」と言って草稿を作ったが、その言葉がやや妥協的であったので、敬宗は驚いて「君を欺くことになるではないか」と言い、結局上呈しなかった。事はやはり明らかになった。
- 考課満ちて京師に入ったとき、王振が会いたがり、周忱に意を伝えさせた。敬宗は「私は諸生の師表である。中貴人に私的に謁見しては諸生に対して何と言えようか」と答えた。振は屈しないと知って、文錦・羊・酒を贈り、程子の四箴を書いてほしいと求めた。敬宗は謝礼のつもりだと察して、書き終えて署名しただけで、贈り物は返し、ついに会いに行かなかった。
- 王直が吏部尚書であったとき、くつろいだ場で「先生は司成の官に長く、いずれ公を司㓂に推薦しよう」と言った。敬宗は「公は私を知る方だ。今、天下の英才と終日論議しているのに、なぜ楽しくないことがあろうか」と答えた。
- 酒をよく飲み、数斗に至っても乱れなかった。襄城伯の李隆が南京を守備していたとき、いつも留めて飲ませ、声伎が左右に満ちていたが、終日杯を挙げるだけで一度も目を向けなかった。その厳重さはこのようであった。
致仕と没後
- 正統十二年(1447年)冬、休職を乞うたが許されなかった。景㤗元年(1450年)九月、尚書の魏驥とともに年齢を理由に致仕した。
- 家に居ても軽々しく外出せず、その応対を受けた者は皆奮い立った。天順三年(1459年)五月に卒し、年八十三。のちに禮部侍郎を贈られ、諡は文定。
- はじめ敬宗と李時勉がともに翰林にいたとき、袁忠徹が二人を相して「お二人はいずれ功名が並ぶでしょう」と言った。敬宗は容姿魁梧、時勉は容貌がやや貧相であったが、のちに二人は同時に南北両京の祭酒となった。時勉は平恕で士の心を得、敬宗は方厳であった。明の世を通じて賢祭酒と称えられるのは「南陳北李」である。