明史卷一百六十二 列傳第五十 鍾同

出自と父・鍾復の悔い

  • 鍾同は字を世京といい、吉安永豐の人。父の鍾復は宣徳年間の進士及第で、修撰を歴任し、劉球と親しかった。球が封事を上げるとき、ともにと誘ったが、復の妻が止めた。球が復の邸に来て同行を促したとき、復はすでに他出しており、妻が屏風の陰から罵って「あなたが自分で上疏すればよいでしょう。なぜ他人を巻き添えにするのです」と言った。球は出て嘆じ、「あの人は婦人にまで相談するのか」と言い、そこで一人で上奏し、ついに死んだ。ほどなく復も病死したので、妻は深く悔い、泣くたびに「こんなことなら劉君と一緒に死んでくれればよかった」と言った。
  • 同は幼いころ母の言葉を聞いて発奮し、父の志を成し遂げようと思った。かつて吉安の忠節祠に入り、祀られている歐陽修・楊邦乂らを見て、「死んでここに入れないようでは男ではない」と嘆じた。景泰二年(1451年)に進士に挙げられ、翌年、御史を授けられた。

復儲の上疏

  • 懐獻太子が薨じたのち、中外は沂王が東宮に復することを望んでいた。同は郎中の章綸と早朝に沂王のことを語り合い、ともに涙を流して、上疏して復儲を請うと約した。
  • 景泰五年(1454年)五月、同は時政を論ずる上疏の中で復儲の件にも及んだ。その概略はこうである。「近ごろ賊の間諜の言を得ましたところ、額森が京師と臨清の虚実を偵察させ、初秋に大挙して深く侵入し、まっすぐ河南に下ろうとしているとのことです。臣はこれを聞いて寒心に堪えませんが、廟堂の大臣はみな平然として意に介しません。昔、秦が趙を伐ったとき、諸侯は平然としていたのに孔子順だけが憂え、人はみな彼を狂人としました。いま臣の申すことも、それと変わりありません。 臣が在野にあったころ、寺人が悪事を構えて直臣の劉球を殺害し、そのため廷臣が口をつぐんだと聞きました。もしあのとき顔を犯して諫める者があれば、必ず上皇の御出を諫め止められ、蒙塵の禍いに至らなかったでしょう。陛下は赫然と中興され、奸党を除き忠直を表彰し、六師に命じて敵を郊外に防ぎ、戦わずして三軍の気は倍しました。臣は陛下が四方の異民族を鞭撻し、坐して太平を致されると思っておりました。それなのに、辺境の煙がようやく収まり傷がまだ癒えぬうちに、驕り心が急に生じ、天下の望を失っておられます。伏して願わくは前車の轍を鑑とし、自ら奮い励み、財貨と女色を追わず、遊興にふけらず、庶政に親しんで威権を総べ、倫理を篤くして風俗を厚くし、邪正を弁じて委任を専らにし、賞罰を厳しくして善悪を明らかにし、風憲を尊んで紀綱を正し、無駄な費えを省き冗員を廃し、僧道が民を害するのを禁じ、賢将を選んで士を訓練させ、そのうえで自ら群臣を率いて郊廟に謝罪なさいませ。成湯が六事をもって自ら責め、唐太宗が十漸をただちに改めたようになされば、天意も回り、国勢も振るいましょう。 また、父が天下を有すれば、もとよりこれを子に伝えるべきです。さきに太子が薨じたのは、天命の在りかを知るに足ります。臣はひそかに、上皇の子は陛下の子であると考えます。沂王は天資が重厚で、宗社を託するに足ります。伏して望むらくは天地の量を広げ、兄弟の仁を篤くし、吉日を選び儀を整えて、儲位を復されますよう。まことに祖宗の限りなき喜びであります。 また、陛下が将帥に命じてそれぞれ方策を陳べさせてから旬日余り、たがいに責任をなすりあい、石亨・栁溥が申したことも、凡人や子どもの計にすぎませんでした。平時ですらこうであれば、いったん急があればどんな策で制するのでしょう。そもそも敵を防ぐ道は賢を用いるに勝るものはありません。陛下は賢を求めること渇くがごとくですのに、大臣の排斥はことのほか甚だしく、推挙する相手はおおむね縁故と富裕の家ばかりです。有能の士が抑えられていても、誰があえて言いましょう。朝臣の欺瞞がこうであるからこそ、臣は胸を撫でて涙を流し、今日、賢を妨げ国を病ませる者どもを醜いと思うのです」。
  • 疏が入ると帝は不快となり、廷臣に下して議させた。寧陽侯の陳懋、吏部尚書の王直らはその言を容れるよう請い、あわせて罪を引いて辞職を求めたので、帝は慰留した。
  • 数日後、章綸もまた復儲の件を上疏したので、そろって詔獄に下された。翌年八月、大理少卿の廖莊も沂王のことを述べて杖刑を受けた。側近が「事を言い出したのは同からです」と述べたので、帝は太い棍棒を封じて獄中へ送って杖打たせ、同はついに死んだ。時に三十二歳。
  • 同が上疏したとき、馬に鞭を当てて出ようとしたところ、馬は地に伏して起とうとしなかった。同は「私は死を恐れぬ。おまえは何をするのか」と叱った。馬はなお四度ためらってから進んだ。同が死ぬと、馬は長く数声いなないて、これも死んだ。
  • 英宗が復位すると大理左寺丞を贈り、その子の啓を国子生に登録し、まもなく咸寧知縣を授けた。啓が父の遺骸を持ち帰って葬りたいと請うと、詔によって舟車と路費を給された。成化年間、次男の越に通政知事を授け、同の妻の羅氏に月々の扶持を給した。まもなく同に恭愍と諡し、忠節祠に従祀させて劉球と位を並べたので、ついに同のかねての志のとおりとなった。
  • 同が下獄したとき、禮部郎の孟玘という者も復儲の件を上疏したが、帝は罪としなかった。また進士の楊集が于謙に書を送って言った。「奸人の黄□が儲位を改める議を献じたのは、死を逃れる計にすぎません。公らはそれを成就させたのです。公は国家の柱石でありながら、後々の始末を考えられないのですか。いま同らも下獄しました。もし彼らが杖の下に死に、公らが高位を安んじて享けるなら、清議に対してどうなさいます」。謙が書を王文に見せると、文は「書生は忌諱を知らぬが、肝は据わっている。一官を進めて処遇すべきだ」と言い、そこで集を安州知縣とした。玘は閩の人、集は常熟の人である。