明史卷一百六十二 列傳第五十 戴綸

出自と皇太孫への諫言

  • 戴綸は高密の人。永樂年間、昌邑の訓導から禮科給事中に抜擢され、編修の林長懋とともに皇太孫の説書に侍し、中允・諭徳を歴任した。神宗が即位して太孫が太子となると、洗馬に遷り、なお講読に侍した。
  • はじめ成祖は太孫に武事を習わせ、太孫もこれを好んで、しばしば出て騎射した。綸と長懋は、太孫は年若く学問をおろそかにして遊猟にふけるべきではないとして、たびたび諫め、綸はさらに疏を作って帝に申し上げた。後日、太孫が侍していたとき、帝が「宮臣で気の合う者は誰か」と問い、太孫が綸と答えると、帝は綸の上奏を取り出して太孫に渡した。太孫はこれによって綸を怨んだ。
  • 林長懋は莆田の人。郷薦により青州教授を歴任して編修に抜擢され、仁宗の初めに中允に進んだ。人となりは剛毅厳格で、たびたび直言を重ね、綸と親しかった。

宣宗の怒りと獄

  • 宣宗が即位すると宮僚に恩を加え、綸は兵部侍郎に抜擢された。ほどなく再び狩猟を諫めて意に逆らい、交阯の軍務に參賛するよう命じられた。長懋は南京から来て遅れて到着し、こちらも鬰林知州として出された。まもなく怨望の罪に坐して二人とも京に逮致され、錦衣衛の獄に下された。帝が自ら臨んで訊問すると、綸は抗弁して帝の怒りに触れ、その場で打ち殺され、家財は没収された。父の兄弟である河南知府の戴賢、太僕寺卿の戴希文も捕らえられた。長懋は獄中に十年あり、英宗が立ってようやく釈放され、官に復して鬰林の守に戻り、恵政があった。没したとき、州人は廟を立てて祀った。