出自と直言
- 耿通は齊東の人。洪武年間に郷試に合格し、襄陽教授を授けられた。永樂の初め、刑科給事中に抜擢され、左給事・右給事を歴任した。剛直で直言をはばからなかった。
- かつて、都御史の陳瑛と御史の袁綱・覃珩が結託して事実を覆い隠し、無辜を陥れたと弾劾した。綱と珩はすでに下獄していたので、「長官である瑛だけを赦すべきではありません」と述べた。また、驍騎などの諸衛の倉が壊れているのに工部侍郎の陳夀が修理に取りかからず、糧が届いても納める所がなくて損耗が多く民を苦しめていること、工部尚書の宋禮が丁匠を顧みず、期限が満ちても帰さないので生業を失う者が多いことを述べ、瑛らはみな叱責を受けた。この当時、給事中で直言できる者としては、通と陳諤があり、朝廷じゅうがその気概を恐れた。久しくして大理寺右丞に抜擢された。
東宮擁護と磔刑
- 帝が北巡し太子が監国したとき、漢王髙煦が嫡を奪おうと謀り、ひそかに帝の側近と結んで讒言と離間を行い、宮僚には罪を得る者が多く、監国中の処置も多くが改められた。通は落ち着いて「太子のなさったことに大きな過ちはありません。改めるには及びません」と諫め、たびたびこれを述べたので、帝は不快であった。
- 永樂十年(1412年)秋、通が請託を受けて罪人を放免したと告げる者があり、帝は激怒して都察院に文武大臣を集めて午門で訊問させ、「必ず通を殺せ。赦してはならぬ」と述べた。群臣は旨のとおり通の罪を斬とした。すると帝は「軽く裁いた程度の些事ではないか。通は東宮のために口をきいて祖法を壊し、わが父子を離間した。赦せぬ。極刑に処せ」と言った。廷臣はあえて争わず、結局「姦黨」として磔にされた。
- 陳諤は字を克忠といい、番禺の人。永樂年間に郷挙から太學に入り、刑科給事中を授けられた。事に臨んで剛毅果断、弾劾に憚るところがなかった。奏事のたびに鐘のような大声だったので、帝は数日飢えさせてみたが、奏対は変わらなかった。帝は「これは天性だ」と言い、会うたびに「大声秀才」と呼んだ。かつて言事が帝の意に逆らい、穴を掘って埋め、首だけを奉天門に出しておくよう命じられたが、七日たっても死ななかったので、赦されて職に復した。のち再び意に逆らい、象房の修理を罰として命じられたが、貧しくて人を雇えず、自ら作業した。ちょうど御駕が通りかかり、誰かと問われたので、諤は這い出て事情を述べ、帝は憐れんで復官させた。順天府尹を歴任し、政治は厳しく激しかったので、執政に忌まれ、湖廣按察使として出、山西に移り、事に坐して免職された。仁宗が即位し、赦によって旧官に戻るはずであったが、帝は諤が以前湖廣で楚王の些細な事を暴き立てたとして、海鹽知縣に謫した。荆王長史に遷ったが王府に嫌われ、宣徳三年(1428年)に鎮江同知に遷り、致仕して帰り没した。