出自と惠帝への諫言
- 尹昌隆は字を彦謙といい、泰和の人。洪武年間の進士及第で、修撰を授けられ、監察御史に改められた。
- 惠帝が即位したばかりのころ、朝廷に出るのが遅かったので、昌隆は上疏して諫めた。「髙皇帝は鶏の鳴くころに起き、夜明けに朝に臨み、日の出前に百官に臨まれました。ゆえに諸事は栄え、天下は治まりました。陛下は大業を継がれたのですから、祖の跡をたどり、慎み励んで万機に心を砕くべきです。ところがいまは安逸に流れ、日が数刻も上ってなお朝に臨まれず、群臣と宿衛は待ちくたびれ、職務は空しく荒れ、上下は緩んでおります。これが天下に伝わり四方の外国に伝われば、社稷の福ではありません」。帝は「昌隆の言は切実で率直である。禮部はこれを天下に示し、朕の過ちを知らしめよ」と述べた。ほどなく地震について上言し、福寧知縣に謫された。
- 燕の兵が迫ると、昌隆は北から来る奏章がしきりに周公が成王を輔けた故事を引いているのを見て、帝に兵を収めて燕王の入朝を許すよう勧め、「万一の食い違いがあれば位を譲ってしまえばよく、決断できずに進退を誤れば、丹徒の一布衣になろうとしてもかなわなくなります」と述べた。
永樂朝での東宮補佐と獄死
- 成祖が京師に入ると、昌隆の名は奸臣の中にあったが、さきの上奏によって死を免れ、北平の世子のもとへ遣わされた。永樂二年(1404年)、世子が皇太子に冊立されると、昌隆は左春坊左中允に抜擢され、事に応じて諫めたので、太子はたいそう重んじた。解縉が退けられたのと同じ日に、昌隆は禮部主事に改められた。
- 尚書の吕震が権を握っていた。性は苛酷で嫉妬深く、独り座って思案し、手で眉尻をこするときは必ず密かな謀り事があるので、属官は互いに戒めて事を申し上げようとしなかった。昌隆が進み出て事を申し上げると、震は怒って返事をせず、しばらくして再び申し上げると、いっそう怒って衣を払って立ち去った。昌隆が退いて太子に申し上げ、令旨を得て執行したところ、震は大いに怒り、「昌隆は宮僚に託して、ひそかに徒党を結び、君を無みする心を抱いております」と奏上した。逮捕されて下獄したが、まもなく赦に遭って復官した。父の喪から起復して震に挨拶に行くと、震は温かい言葉で迎え、そのうえで前の上奏を蒸し返したので、再び錦衣衛の獄に下され、家財を没収された。帝が巡幸するときは、詔獄の者はおおむね車に乗せて従わせ、これを「随駕重囚」といったが、昌隆もその一人であった。
- 数年後、谷王の謀反が発覚した。王が以前に昌隆を長史に推していたため、同謀とされ、詔によって公卿が合同で訊問した。昌隆が弁じてやまなかったのを震が論破し、罪が定まって極刑に処され、一族も誅された。のち震が病んで死のうとするとき、「尹相」と叫び、昌隆が待ち構えて自分を殺そうとしているのが見える、と言ったという。