出自と貴州按察使としての建議
- 應履平は奉化の人。建文二年(1400年)の進士。徳化知縣を授けられ、吏部郎中を歴任し、常徳知府として出た。宣宗の初め、貴州按察使に抜擢され、赴任先ごとに奸悪と害毒を除き、時政をたびたび論じた。
- 旧制では、都督府が外に使者を遣わすときは必ず内府の勘合を受け、都司に下しても勝手に衛には下さなかった。ところがこのころ軍府が次第に横暴になり、使者が関文を携えて四方に馳せ、諸衛を回って軍伍から搾り取っていた。宣徳七年(1432年)、履平は抗議の疏を上げ、「勘合の制は詐偽を防ぐためのものですが、いま右軍府が黔に遣わす者は故事に従わず、小人が権勢を頼んで無理な要求をしています。詐冒をどうやって調べられましょう」と述べた。宣宗はその言を善しとし、都督の陳政は罪を認め、帝は諸司に永くこれを守らせた。軍府はこれによって慎むようになった。
- 山雲が廣西を鎮守して蠻に備え、毎年貴州から軍一万人を徴発し、春秋に交代させていたが、帰る者に逃亡が多く、そのため元の衛の軍を取って補い、逃亡者は追及しなかった。履平は「貴州は四境がみな苗蠻で、軍伍が空になれば急のときに誰と戦い守りましょう。いま衛の軍が廣西で逃亡し、衛に残る者で補っていては、数年で貴州の軍伍は空になり、辺境の紛争が起きます」と奏上した。帝はそこで山雲に命じ、廣西の諸衛を厳しく責めて逃亡兵を追い戻させ、兵力が足りしだい帰らせ、貴州の戍卒を免除させた。山雲は名将で粤を鎮めて功があり、書生である履平を軽んじていた。正統元年(1436年)、履平は山雲が権を弄び威福を勝手にしていると弾劾した。帝が山雲に釈明させると、雲は大いに驚いて罪を認め、帝は赦した。
- 翌年、四件を上書した。一つ、鎮逺など六府は湖廣から貴州に移管されたため川塩を食すべきだが、蜀への道は遠いので、なお淮塩を食すのが便宜である。一つ、軍衛の糧は重慶で支給されるが舟運が通じず、軽い荷に換えやすく損耗が多いので、鎮逺の秋糧のうち湖廣に納める分を近場で支給してほしい。一つ、黎平など諸府の毎年の黄蠟・白蠟の調達を停止してほしい。一つ、貴州に三司を置いた当初、月俸はわずか一石であったが、いま糧は次第に充実したので増給してほしい。いずれも認められた。
- 当時、方面の官が公事で管内を回るとき、慣例では駅を使えなかった。履平は、車舟を借りれば必ず民を煩わすとして、駅を使わせるのが便宜だと述べた。また軍伍の不足について、衛所の官旗で雑犯死罪や徒流にあたる者はみな鎮将のもとへ送って功を立てさせ、期限が満ちれば隊伍に戻すこと、辺軍の窃盗犯および土官・民と官旗のうち罪の軽い者は、備蓄の欠けた所に粟を納めて贖罪させることを請い、いずれも認められた。
- 正統三年(1438年)、雲南左布政使に遷った。当時は麓川で用兵があり、たびたび功績が奏上された。正統八年(1443年)、致仕して帰郷した。