出自と山東の救荒
- 陳士啟は名を雷といい、字で通っていた。㤗和の人。永樂二年(1404年)の進士で庶吉士に選ばれ、禮部郎中に抜擢された。尚書の吕震は陰険で嫉妬深く、属吏はみな恐れて恭順に努めたが、士啟だけは少しも迎合しなかった。
- 永樂十二年(1414年)三月、吏部が布政司・按察司の欠員の多さを述べた。帝は「布政・按察は朕の方岳の臣である。数千里の土地を数人の手に懸けるのだから、廷臣のうち賢能な者を選んで分けて用いよ」と述べた。そこで諸曹の郎中や給事中から監司として出された者が二十余人あり、士啟は山東右參政を得た。
- 吏務に心を尽くしたが、細かく詮索して名を売ることはせず、徭役と賦税を督するのに期限で追い立てなかった。青州が飢饉のとき救済を上疏し、粟を運ぶ使者が着いたときには飢民は倍になっていた。士啟は重ねて上疏し、先に粟を出して民に与え、使者には「罪があれば私一人が引き受ける」と言った。廷議は結局これに従った。
- 唐賽兒の乱に連座して下獄したが、数か月で釈放され復職した。髙煦が謀反を企てたときは、士啟は青州から夜通し馳せ帰って三司に告げ、ひそかに朝廷に報告した。髙煦が捕らえられると、薛祿・張本に従って余党を調べ、人民を安撫した。任務が終わると山東の軍籍の整理を命じられ、宣徳六年(1431年)に在官のまま没した。